私の半生は、まさに言葉を大事にする人生だった。
言葉は生命。
言葉こそ私。
世界は言葉で出来ている。
すべての言葉は私に向かってやってくる。
しかし、ここで、あらためて私は言葉について考えているんだ。
私は言葉に飲まれず、言葉と融合せず、言葉と分離していたい。
愛を祈っているよ

自己否定が苦しくて、自分を愛したくて、自分への愛の祈りを続けている。
毎朝毎朝、自分に愛を贈り続けている。
愛しているよ。
愛しているよ。
愛しているよ。
ただ、ただ、愛を贈り続けるというのも難しくて、祈りの最中、私にはいろいろな言葉がやってくる。
未来が殺しにやってくる

未来のために今を犠牲にしなくてはならない。
未来のために今がある。
そんな考え方が息苦しくて、そんな考え方では幸せになれない気がして仕方がなかった。
未来の安心の為に今の幸せを蔑ろにして、未来の安心のために今を不安に生きる。
だけど、未来は永遠に続く。
未来は永遠にやってこない。
1秒先も、1時間先も、1年先も、10年先も、無限に未来は続くのだから。
来ないもののために延々と犠牲になり、来ないもののために延々と不安になっている。
まぁ、それはそれで愛しいよな。
愛しているという言葉には意味はいらない

愛しているという言葉には意味がいらない。
愛しているってなんですか?と聞かれてもよくわからない。
よくわからないままに祈っている。祈り続けている。
簡単にわかってしまわないように祈り続けている。
わかってしまった愛など、大した力を発揮しないような気がする。
愛はわからなくていい。ただただ念じ、ただただ祈ればいい。
愛という言葉が繰り返しきているのなら、その言葉はきっと私を救うために来ている。
私はただ、わけもわからず、その自分にやってくる言葉を聞かせてもらい続ければいい。
今という感覚がよくわからなかった

今という感覚がよくわかならかった。
今が大事だよ。
今ここが大事だよ。
そんな言葉は、たまにやってきていた。
この今という感覚を大事にできれば、少しは幸せになれるのではないかと思えた。
もっと心が落ち着くのではないかと思えた。
未来に殺されなくて済むのではないかと思えた。
たった独りの人間観

たった独りの人間観。
今私は、愛の祈りと並行して、たった独りの人間観を練り上げている。
「たった独りの人間観。」この言葉の進むところをただただ、歩み続けている。
わりと最初の方には他人の事を考えた。
他人は、名前と身体と音でできている。
実にシンプルだ。
私は、他人が出す音を聞いて、言葉に聞かせてもらっている。
私には他人の言葉は聞こえていない
「私は他人の言葉を直接聞いている。」
そんな出来事は起こっていない。
他人はきっと他人の言葉を語っているのだろうが、私に聞こえているのは、ただ音だけだ。
そしてその音を聞いた瞬間、私は瞬時に私の言葉で捉える。
私は音を全て、私の言葉で捉えている。
私の意思でそうしている、というスピードではない。
もう、当たり前のように、気が付くと、そうなってしまう。
そうなってから気が付く、いや、気が付きもしない。
そんな感じなのだ。
他人のことなどこれっぽっちもわかるわけがないのだ
私は他人を全て私の言葉で捉えている。
私にやってきている言葉が、同じように他人にやってきていると思い込んでしまう。
私にやってきている言葉が、同じはたらきで他人にもやってきていると、疑えなくなってしまう。
実際はこれっぽっちもわからん。
私の言葉でしか聞こえないのだから。
他人のところなど、これっぽっちもわかるわけがないのだ。
それなのに私は、他人を指さして、Aさんに嫌われた、Bさんに怒られた、Cさんに褒められた、などとやっている。
どうしても他人を指さしてしまう私
すべてすべて、私の言葉。
私の言葉のはたらきなのに、他人を指さしている。
私に聞こえているのは、他人の発した音だけ。
私と他人で、同じ言葉のやりとりができているというのは幻想。
私と他人が、同じ言葉のはたらきを生きているというのは誤解。
それにたまにでも気が付けるようになるためには、毎日、毎日の、祈りが必要なんだ。
たった独りの人間。
それは祈りだ。
事実を事実のままに見るための祈りだ。
私は私からもたった独りになれないだろうか

続けて、たった独りの人間の祈りを歩んでいたら、ふと自分に目が向いた。
私は、私からも、たった独りになれないだろうか。
何を言っているかわからないだろう。
私も別に何を言っているのかは、わかっていない。
ただ、他人をシンプルに捉えたときと同じなんだ。
私もまた、名前と身体と音でできているのではないかと。
私は言葉から分離できないだろうか
まだ、安定していないが、なんというか、私は言葉から分離できないだろうか?という感じなんだ。
私は、ただただ、言葉に聞かせてもらっている存在。
言葉に聞かせてもらっている存在を私と呼ぶ。
世界は音で出来ているのではないか
人間において、聞こえるという感覚は非常に深い。
私の先生は、世界は言葉で出来ていると言っていた。
世界は言葉で溢れていると言っていた。
私は、世界は音で出来ているのではないかと思う。
世界は音で溢れているのではないかと思うんだ。
まぁ、音も言葉だから、先生が言っているのは何一つ間違っていない。
まず音を聞いている
私は、まず音を聞いている。
そして、その音に言葉を聞かせてもらっている。
この音を聞いているという感覚を飛ばしてしまうと、私は言葉と融合してしまう。
私に聞こえる全ての言葉と、聞こえた瞬間に融合してしまうと、この世界は苦しすぎる。
聞こえた言葉を全て私としてしまうと苦しすぎるんだ。
だから私は世界を音としてとらえる。
音に聞かせてもらった言葉。
私の世界は音に聞かせてもらった言葉であふれている。
私は、ただ音に言葉を聞かせてもらっているだけ。
自由な私
愚かな私、ではない。
何らかの音から、愚かな私という言葉が聞こえている私なんだ。
優れた私、ではない。
何らかの音から、優れた私という言葉が聞こえている私なんだ。
この、聞こえている私、となっているとき、私は言葉と融合せずに、ただ言葉に聞かせていただいている状態になれる。
こういう時の私は自由なようだ。
ひとつふたつの言葉にとらわれず、次から次へと無限にやってき続ける言葉に聞かせてもらい続けられるようだ。
私はただ、音に言葉を聞かせてもらっているだけの存在。
私の心に決まった形などない。
今とは、身体の音のことなのではないだろうか

愛の祈りを続けたときに、今という言葉がとても気になった。
どうすれば未来に殺されなくてすむだろうか。
どうすれば、今を感じて、今ここを生きることができるのだろうか。
また、ふと思ったんだ。
今って、身体の音なんじゃないだろうか。
身体の音を聞いているとき、それが今なんじゃないだろうか。
身体は過去も未来も決して語らない。
ただただ、今の音を出し続けている。
だから、身体の音に耳を傾けている時、私は今を感じることができるのではないだろうか。
感覚という言葉を逃がしてやる

私はこれまで、感覚という言葉に慣れ親しんできた。
それは私にとって決定的なもので、絶対的なものだった。
だけど、感覚を身体の音として聞くことができると、私はまた、言葉から少しだけ自由になれる気がする。
感覚とは、あくまで身体が出している音である。
そして、その身体の音から言葉を聞かせてもらっているのが私である。
言葉は動いているのが自然。
変わっていくのが自然。
それが言葉のはたらき。
そう考えれば、感覚すら絶対ではない。
それはただ、身体の音がであり、それが私に言葉を聞かせてくれている。
だから形なく変わり、移ろうのが自然なもの。
苦しいという状態があって、苦しい私になるわけじゃない。
苦しいという言葉になるような、なんらかの音を身体が出していて、それを私が苦しいという言葉に、今聞かせてもらっているだけ。
そんな感じだ。
言葉を自由に逃がすと私は私を固定できなくなる

言葉から自由になると、私は私を固定できなくなる。
「ただ、音から言葉を聞かせてもらっている存在」というところでしか、私は私をとらえられなくなる。
なんか、そういうのって自由で柔軟な感じがする。
言葉と一体化して、なんかグルグルしちゃわなくなること。
たった独りの人間ってのは、言葉のはたらきをただ聞かせてもらえる人のことなんだな。
言葉ってのは、はたらきなんだ
言葉ってのは、はたらきそのものなんだ。
動き続け、変わり続けない言葉は、私と同化している。
それだと苦しいんだよ。
言葉は止めどなく自由に流れ動いている時が自然なんだ。
私と融合している言葉は留まっている。
それを自由に開放することができるかどうか。
言葉は必ず音から始まっている。
今の私にとっては、その1つのプロセスが、なんかとても大事なんだよ。
言葉と融合しない。言葉を自由に逃がしてあげる。
なんか、そんな感じかな
今日はここまで。
また、何かはかどったら、文字で語るね。
それでは。
黒田明彦