自己否定に苦しむ日々をどうにかしたくて、グルグルと考える毎日ですが、これまでの私の学習経験を踏まえ、純粋な自信、自尊、自重について考えてみました。
1つ言えることは、私を超えた何かにふれる体験をもつことなしに、自己否定の苦しみからは逃れられないだろうということです。
興味のある方は読んでみてください。
【純粋な自信、自尊、自重への第一歩は?】自分の言葉を聞かせてもらうという体験
初めて学習の場で、語り、そしてそこで先生に私が声にした言葉を丁寧に、先生の声で届け聞かせてもらったとき…。
私はギクリとしたことをよく覚えています。
先生が私に聞かせてくれた言葉は、確かに私自身が声にした言葉でした。
私は、その私自身の言葉にギクリとしたのです。
「そうじゃない…。」
静かに、はっきりと、そんな言葉が私の頭の中に響きました。
私は、私自身の声にした言葉を聞かせてもらった。
それなのに、そこで「そうじゃない…。」が聞こえたのです。
これが、私の言葉が私に語りだした瞬間でした。
それ以降の私は、私の声になった言葉が、私に聞こえるようになりました。
私は、私の声になっている言葉を聞きながら語り、自分で自分の語りを修正できるようになっていきました。
私は語りながら(聞きながら)より、自分の身に添う言葉を語ることができるようになっていったのです。
【純粋な自信、自尊、自重への第一歩は?】言葉が届く、私に向かってやってくるという体験

すると、しだいに不思議な感覚が実感できるようになりました。
私は、語っていく中で、普段自分で考えたこともないことを言えている、という実感に出会ったのです。
思う・考える → 言葉を選び → 声にする
私は、言葉を声にするとき、これが、当たり前の順番だと思っていました。
しかし、語っていく中で、
すでに声になっている → それを自分で聞く → 自分が何を言ったかを知る
この順番で認識しているときがあるということを体験できました。
このあたりの体験を学習者は、「言葉が来る」と表現します。
私の計らいを超えて、私の意志を超えて、私の思惑を超えて、
言葉が私にやってくる。
この感覚が、まず、とても貴重で大事な出会いです。
【純粋な自信、自尊、自重への第一歩は?】私を超えた何かにふれる体験

言葉が届く。
言葉が私に向かってやってくる。
そんな体験を繰り返していくと、
まだ声になっていない、私の頭に浮かんだ言葉も、私にやってきている言葉と感じられるようになってきます。
私の力で、私の意志で生み出している言葉などないのかもしれない。
そう思えてもきます。
私はいつだって、ただ、私にやってきている言葉を聞いているだけなんだ、という感覚が鋭くなってくる。
このように、私の意思を超えて生まれてくるもの、
私の力、私の計らいを超えて生まれてくるものに、常日頃から私は包まれているという感覚に、少しずつふれられるようになってくるのです。
【純粋な自信、自尊、自重への第一歩は?】自我と自己
分かれ、分かれ、分かれた。
私、私、私、
この私。
私とは、自我のはたらきが生んでいる自己認識のこと。
自我とは、とにかく全てを「私」と「その他」に分けていくはたらきそのもの。
自我によって全てから分けられた「私」という認識の積み重ね、それを自己とします。
私という感覚は、この自己、そのものです。
しかし、言葉は、この自己を超えて、どこからか届いてくるのです。
この体験が、自己以外の私がある、というイメージをくれるのです。
無限の可能性

自己以外の私。
これが私に無限の成長の可能性を教えてくれます。
自我のはたらきによって、その他のものから、ことごとく分けられている私。
その積み重ねを自己と呼びます。
しかし、その自己の外から、確かに言葉は届いてくる。
私に向かってやってきている。
その実感は、自己の外にある私にふれる体験。
それを私は今のところ、有機体レベルの体験と呼んでいます。
そして、その有機体レベルの体験は、全てから分かれる前の私…。
全てと1つのままの私にふれる体験でもあるのではないかと思っています。
人間は自我によって分けられ、生まれ続ける自己、の外でなら、1つのままであるかもしれないということです。
全てと1つのままの私。
それは、宇宙のはたらきであり、人間すべてが持っている可能性である「創造性」にふれる部分です。
真実の共感の秘密もそこに隠れています。
自己肯定とは、自我のはたらきを否定することと同じ
自分を信じる
自分を尊ぶ
自分を重んじる
この自分と呼んでいる部分は、私が認識している私。
自我のはたらきによって、分けられて、分けられて、分けられてこそ存在できる、この「私」という自己の感覚のことです。
全てから、2つにちぎれてしまった存在。
全てからちぎれることで存在できる存在。
それが「私」という「自己」です。
自信や、自尊や、自重は、
この「自己」を信じ、尊び、尊重することでは…
ないように思います。
自己は、全てから分けるはたらき、自我によって生まれている。
そして、自我は、全てからことごとく分けるためなら、自己を否定することをいとわない。
自我にとっては、分け続けることこそ、その存在理由であるからです。
そして、この世は、否定しなくては分けられないもので溢れている。
自己否定を否定すること、つまり自己肯定は、自己を生み出し続ける自我のはたらきを否定することと一緒なのです。
自己肯定=自我否定
【純粋な自信、自尊、自重への第一歩は?】純粋な自信、自尊、自重とは

私には自己の外から言葉が届く、やってくるという感覚があります。
自信や、自尊や、自重は、その感覚を信じ、頼り、重んじるということではないでしょうか。
自分の意志、思惑の外からやってくる言葉。
自分を超えたなにか、から届けられる言葉。
それらが、ちゃんと、ことごとく自分に向かってやってきてくれることを
信じられる。
尊べる。
重んじられる。
自己を超えた、有機体レベルの体験、
自分の中に確かにある、宇宙のはたらき、
無限の創造性を信じ、尊び、重んじる。
それが純粋な自信、自尊、自重であると私は思うのです。
【純粋な自信、自尊、自重への第一歩は?】おわりに

人間は、自我が生み出し続ける、自己の世界を生きるしかありません。
そして、自我はそもそも、比較と否定を生み出してナンボのはたらきです。
だから人間は苦しい。
救いはどこにあるのでしょうか?
それは、自己を超えたはたらきにふれる体験です。
それこそが、有機体レベルの体験であり、全てと分かれる前の私、宇宙のはたらきそのものにふれられる体験である、と私は思うのです。
その有機体レベルの体験にふれるための第一歩が、語るということであり、それを支えるための第一歩が、相手の声にした言葉をこちらの声にして相手に届けるということなのです。
語るということは、宇宙のはたらきにアクセスすることであり、
聞かせていただくということは、宇宙のはたらきにアクセスすることを助けることです。
そして、宇宙のはたらきにアクセスすることなしに、純粋な自信、自尊、自重は生まれようがない。
私はそう思うのです。
黒田明彦