今回は、今まさに自己犠牲感に苦しんでいる君に向かって言葉を贈ってみる。
自己犠牲。
この言葉に君は美徳を感じるかい?
それともおそれを感じるかい?
まだ若かったころの私は、この自己犠牲という言葉に、欺瞞を感じ、そしてこの言葉にひどく追い詰められていた。
先に結論を言おう。
君は犠牲になる必要はない。
もし、その家族を、その組織を、救う能力を持っている人が君しかいないとしてもだ。
君は犠牲になる必要などないんだ。
それでは始める。
自己犠牲とはどういうことか、その意味とは?

自己犠牲とは、自分を犠牲にして他のために尽くすこと、という意味の言葉だ。
一部の仏教やキリスト教では、自己犠牲は尊いもの、愛だとされている。
確かに、自分の為に相手を傷つけることの何倍も尊いし、愛を感じる行為だろう。
しかし、私は、個人的には自己犠牲とは非常に未熟な奉仕だと思っている。
その行為に自己犠牲を感じるなら、それは尊くない。
その行為に自己犠牲を感じるなら、それは愛ではない。
誰かのためになるなら、自分を殺していいという価値観は私にはいただけない。
自分と相手、両方が救われていかないところで、私は、愛も、尊さも語りたくはないんだ。
自分と相手、両方を救う難しさにトライするほうが、何倍も尊く、愛しく、美しい。
君が犠牲になる必要はない

君はいいんだ。
自分を殺さなくて。
いいんだ。
自分を生かすように生きて。
自分の行きたい場所に行って。
自分の心地よい場所に居て。
君はね、元気になっていいんだよ。
君の人生なんだ。
君が君を潤わしてあげなくてどうするんだい?
いいんだ。
そこから逃げ出しても。
誰かの為に生きなくても。
大丈夫なんだ。
それには、根拠がある。
拍子抜けするぐらいの根拠が。
救われなきゃならないのは君自身だ

おそらく、君はその家族や、組織の中でのキーパーソンだろう。
君には、その家族や組織に問題意識を持てる能力があり、自分が何とかしなくてはならないという強い責任感がある。
「何とかできるのは、自分しかない」という判断も多分妥当なのだろうな。
そして、今の君には頼れる人もいないのだろう。
私には、そんな君に聞いてほしい持論がある。
その家族や、組織の中で一番現実の検討能力があり、一番責任感の強い人ほど、一番最初に救われなければならないんだ。
つまり、その家族や組織の中で一番救われなきゃならないのは君なんだ。
自己犠牲感を感じている君は、その場所に居ても、きっと救われないだろう。
少しずつ、心も体も辛くなっていって、元気がなくなっていく。
言いたいことは言えず、言いたくないことばかり言ってしまう。
自分がどんどん削られていくのがわかるだろう。
いや、むしろ君は、同じ家族として、組織の一員として、他の人と同じように、そのような苦しみを味わなくてはならないと思っているのではないかな?
残念だが、その必要はない。
敢えて、厳しいことを言わせてもらおう。
その家族、その組織に、
必ずしも君は必要ない。
もし君が逃げたらどうなるか?

もし君が、その機能不全の家族や組織から、自分の都合優先で逃げたらどうなると思う?
もう大変なことになってしまうと思うだろう。
当然の想像だ。
現実検討力があり、責任感があり、家族や組織が頼りっきりの君がいなくなるんだから。
家族や組織が大崩壊してしまうことを想像するだろう。
しかし、残念だが、よっぽどのことがない限り、そのような結果にはならない。
人間はね、君が思うよりも、ズルく、したたかで、強いんだよ。
犠牲になってくれる君がいなくなったら、こんどは次の犠牲者を探そうとするだけなんだ。
「このままではいけない!」と、他の家族や組織の構成員が立ち上がって、今まででは考えられないような建設的な動きをすることだってある。
拍子抜けするぐらいなんだ。
本当に拍子抜けするぐらい、その家族や組織は、君を犠牲にしなくてもやっていけるんだ。
だから君は、逃げていい。
君が行ってみたいところに行っていいし。
心地よいと思えるところに居ていいんだ。
大丈夫なんだ。
君が犠牲にならなくても。
だから、自分の為に生きてくれ。
それが、家族や、組織のためになることだってあるんだ。
少しだけ私の事を話そう

私は、機能不全家族に育った。
正確には小さな頃は、それなりに機能していたんだ。
ただ、私が思春期に突入したころにはもう酷かった。
家族はもうめちゃくちゃ。
まぁ、暴力はなかったから目立ちにくかったけどな。
「それじゃ、大したことないでしょ?」っていう人もいるかもしれないな。
だが、私にしてみれば、毎日、精神的、エネルギー的には暴力を振るわれていたようなものだ。
私は、そんな中で、私がこの家族をなんとかしなくてはならないのだと、誰かにずっと言われ続けているような感覚があった。
私が一番家族の中でマシだから。
私が犠牲になれば丸く収まるんだ。
そんな風に思い込んでいた。
だけど、結局、限界がおとずれて、私は弾けるように家を出た。
その結果どうなったか?
家族は何も変わらなかったのである。
私が居ようが、居まいが、時間が止まっているかのように、同じ状態が維持されていた。
さらに、その数年後、姉が家を出たときには、さらに不思議なことが起こった。
他の家族が結束したのである。
なんだか、仲良しになってしまったのである。
あれほど崩壊していた家族が、である。
あのときは、本当に拍子抜けした。
私の犠牲はなんだったのか。
家族にとって私とはなんだったのか。
居れば居るなりに。
居なければ居ないなりに。
人間はズルく、したたかに、力強くやっていける。
私が犠牲になることで、家族が得るものもあれば、家族が失っているものもあったのだ。
だったら、私は私の好きなことをしよう。
だったら、私は私の好きな場所に居よう。
そして、元気になったら、余裕ができたら、そして気が向いたら。
今度は、犠牲になどならずに、家族を助けてあげよう。
ただ、自分の為に、家族を助けてあげよう。
私は、家を弾けるように飛び出してから20年経った今、家族を助け、家族に助けられながら一緒に暮らしている。
君のために詩を贈るよ

最後に君に、私が先生に教えてもらった詩をおくるよ。
このブログでは他の記事で紹介したこともあるけれど、私の大好きな詩だから、君にも贈るね。
ゲシュタルトの祈り
私は私のことをする
あなたはあなたのことをする
私はあなたの期待にこたえるために生まれてきたわけではない
あなたも私の期待にこたえるために生まれてきたわけではない
私は私
あなたはあなた
もし、私とあなたが出会い、わかりあうことができるのであれば、それは素晴らしいことだ。
だけど、もしそうならなくても、それは仕方のないことなのさ!
フレデリック・F・パールズ
自己犠牲感に苦しむ、純粋な君へ、おわりに

私の言葉が今の君に、どう届くのかはわからない。
君が何かの犠牲になっていることを誉れと思っているのなら、別に私に言うことはない。
仏教も、キリスト教も君を応援してくれるだろう。
だが、もし、君が心底、自己犠牲をしたくないと思いながら、家族や組織の事を見捨てられないという葛藤を抱えている、純粋で優しい人ならば。
君が、君の思うように自由に生きても、きっと誰も悲しむような結果にはならないと私は信じている。
仏教や、キリスト教が君を応援してくれなくても、私が君の自由を応援しよう。
君よ、何年かかってもいい。
まずは自由に生き、元気になれ。
話はそれからだ。
黒田明彦