光のいのり

学習者

自己肯定への道~赦し、赦されたい場所~

自己肯定へ道

今日も今日とて、苦しみについて考えていたら、また一つ小さな発見がありました。

自分に優しくとか、自己肯定とか曖昧な表現では私はなかなか救われませんが、赦されて、救われる場所があるとしたらここかもな、というところを1カ所見つけました。

これは、自分に優しくすること、自己肯定の具体的な1つの例です。

興味のある方は読んでみてください。

【赦し、赦されたい場所】コントロールの最終手段

自己肯定への道_コントロールの最終手段

私は、今日も、ただ偏に、自分の苦しみをどうにかしたくて模索しています。

今日は、他の人の苦しみ、特に、若い人の苦しみに何かヒントはないかとこちらのサイトでお勉強していました。

そこに1つ、私にとって非常にセンセーショナルな記事を見つけました。

それは、自死についての記事。

身内が自死してしまった人が書いていた悲痛な記事。

その記事の内容も衝撃的でしたが、それ以上に、その記事の読者のコメントにハッとさせられました。

「自殺したい。自殺をするというのは、自分をコントロールする最終手段ですね。」

これは私にとっては、

非常に、非常に、

印象的なコメントでした。

自分をコントロールする最終手段…。

そういえば、私が実感し、何度か言葉にしてきたことに、

人間関係のコントロールの最終手段は、「自分からの一方的なお別れ」である、というものがあります。

これにすごく似ている。

人生を完全にコントロールする最終手段は、慈悲なき自死である

なんだか、これはひとつの真理なのではないでしょうか。

【赦し、赦されたい場所】人間の4つの苦しみ

人間の強烈な苦しみは、4つぐらいに分けることができるかもしれません。

1つ目は、身体的な苦しみ。病気や怪我などでの物理的で耐え難い苦しみです。

2つ目は、心の外傷。誰かの心ない言葉や態度で傷つけられたり、愛しいものと別れなくてはならなかったり。心が直接的に傷つくような苦しみ。

3つ目は、承認されない苦しみ。自分の存在価値がわからない。生きている意味を感じない。自己効力感が感じられない。充分な愛情をもらえなかったことが関係していることが多いでしょうか。

そして、最後、4つ目が、自分をコントロールしなきゃならない苦しみ

思えば…

自己肯定への道_思えば

そういえば…。

摂食障害になってしまった人とのやりとりをしていたときに、たまに思ったのが、超極端な完璧主義をもっている人が多いなということ。

そして、それが、超強力な自己コントロールを生み、結果、尋常じゃない拒食状態を維持できる。

ある時期の摂食障害の人は、この自己コントロール感に強烈に満足しているらしいです。

しかし、最終的には、その自己コントロールは破綻して、過食に移行していくわけです。

苦しみと自己コントロール感は結び付いている

人間の苦しみの一つに強烈に結びついているものの一つは、自己コントロール感なんですね。

苦しみやすい人は、多分、自己コントロール感にストイックすぎるんだと思います。

生育過程の中で、自分がしっかりしなきゃ、自分が自分をコントロールしなきゃ…、

そうじゃなきゃ、生きていけない。

自分を保護してくれる立場の人が非常に頼りなかった場合、

自分の自己コントロール次第で自分の生き死にが決まる。

そんな人生をおくらざるを得ない。

そういう人は自己コントロールに自分の生命がかかっている

自己コントロールできていることに非常に強い満足感を感じる

自己コントロールできている自分こそ、赦された自分。

それだけならいいんですけどね…、

逆に、自己コントロールを失うことは、死ぬことと同じというほどの迫力がある。

自己コントロールを失うくらいなら、私は死ななくてはならない。

多分こんなロジックが完成してしまう。

【赦し、赦されたい場所】私の赦されたい場所

自己肯定への道_赦されたい場所

そういえば、私は、「自分は真っ当な人間じゃなくてはならない」という思いが強かったかもしれません。

言いつくされてきている言い方で、あえて言うと「良い子」というやつですね。

自分で自分をコントロールするということ。

それができるのが当たり前、それができない自分はダメな自分。

そう思う所が今でも強いですね。

私の感覚としては、それは、世間的にも当たり前のことであるという感じです。

自分で自分の面倒を見れなくては社会では困りものになってしまうし、迷惑だ。

自分のことは自分でしっかりやってもらわないと困る!

本当は、自分で自分をコントロールすることって、簡単に、当たり前のようにできることじゃないんだと思います。

だけど、それを私は当たり前のように強いられている気もするし、

なんだかんだで、一般的な他人にも強いてきているような気がするのです。

自分をコントロールしなくてはならない

自己肯定への道_自分をコントロールしなくてはならない

食べ過ぎて太らないように

寝すぎてリズムが狂わないように

怠けることで錆びないように

努力を重ねて成功するように

誰とも違う私であるために、純粋であるように

人の迷惑にならないように

人の不快にならないように

人の心配にならないように

人の期待に添うように

人の信用を失わないように

自分をコントロールしなくてはならない。

自分をコントロールできていないと感じるときの、苦しさ。

情けなさ。

みっともなさ。

恥ずかしさ。

それに苦しんでいたんです。

そして、今あらためて思うのは、

私は、自分をコントロールできない自分を嫌悪している自分に気が付いていなかったのかもしれません。

そして、私は、自分をコントロールできない自分を誰かに赦してほしかったのかもしれません。

この辺りの思考で、いつか誰かに聞かされた、この言葉がやってきます。

「甘ったれ」

そう。

この言葉にも私は怯えていた。

【赦し、赦されたい場所】苦笑いで赦してやりたい

自己肯定への道_苦笑いで赦してやるたい

太ってもいいじゃない。

昼夜逆転してもいいじゃない。

怠けて、努力できなくてもいいじゃない。

人に嫌われ、信用されなくてもいいじゃない。

自分なんて全くコントロールできなくてもいいじゃない。

そう言いたいわけじゃないし、言って欲しいわけじゃない。

自立して生きていくというのは私にとって希望でもあります。

自分のことは自分でやりたい。

そのために、自分で自分をコントロールしたいというのは、悲願でもあります。

だけど、自分で自分をコントロールできないことがいっぱい、いっぱいある。

私は、これまで、自分をコントロールするなんて、できることじゃないと、言葉にしておきながら、

そして、それでも自分で自分をコントロールしたがっている、とある程度自覚しながら、

自分で自分をコントロールできない自分を強烈に嫌悪しており、しかも、それで苦しんでいることに、気が付いていなかったのです。

どうも私にとって、自分で自分をコントロールできない自分を嫌悪することは、正しいことであり、むしろ、そうでなくてはならない姿だったようです。

赦してやりたい

赦してやりたい。

自分で自分をコントロールできない自分を赦してやりたい。

また、やっちゃったかと、苦笑いで微笑みかけてやりたい。

いけないこと、正しくないこと、後ろ向きなこと。

普段は我慢していても、時々、コントロールを失って、やってしまう。

そんな自分を嫌悪せず、苦笑いで微笑みかけられるようでありたい。

無駄遣い

不衛生

不注意

寝坊

ドカ食い

サボり

悪愚痴

無智

不摂生

無計画

こんなのは、自分をコントロールできれば防げられること。

そして、それはやらなければならないことだし、

できて当たり前のことだ。

それなのに、それをコントロールできない自分がいる。

私はそんな私を苛烈に攻撃してしまう。

それは、なんとも苦しい。

苦しいんだ。

私は、自分をコントロールできない自分を苛烈に攻撃するのではなく、かといって安易に正当化するでもなく、

ただ、

「また、やっちゃったね。」

と、苦笑いをして、

ただ、赦してやれるようになりたい。

頭をぐしゃぐしゃっと、雑に撫でてあげる感じ。

自己を肯定するなんて不可能なんじゃないかなと、苦しみの中で足掻いている私。

しかし、ここにきて、あらためて、癒してあげたい、赦してあげたい私を見つけた。

それは「自分をコントロールできない私」だ。

【赦し、赦されたい場所】おわりに

自己肯定への道_おわりに

先生には、

「自分で自分をコントロールできているときなんて、一瞬でもあるんでしょうか?」

とか、言われそうです。

ですが、私の心は、この今も、「自分をしっかり、コントロールしなくちゃ!」と力強く動いているように思います。

この心のはたらきが、私を苦しめているのは、どうも間違いなさそうなのですが、同時に、私をある程度、真っ当な人間にもしてくれているのでしょうか。

少なくとも、今後は、自分をコントロールできない自分を強烈に嫌悪しがちな自分のことは忘れないようにしたいです。

そこに気が付いていれば、赦されようもあるでしょう。

自分をコントロールしたい!という心の動きはなくなることはないのかもしれません。

だけど、しばらくは、「自分で自分をコントロールしないように」コントロールすることを心がけてみようかな、と思うのでした。

黒田明彦

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