ここ数日、普段私が参加しているカウンセリング学習グループではない、他のグループのエンカウンターに参加する機会に恵まれました。
いつもと違う環境で行うエンカウンターグループはとても新鮮で、貴重な学習の機会となりました。
それぞれの主宰者の方々に精いっぱいの敬意を表しつつ、個人的な気づきを自由に書いていきたいと思います。
興味のある方は読んでみてください。
【ゼロベースエンカウンターグループ】私のエンカウンターグループ
私はエンカウンターグループに関わるようになって、18年以上の月日が経っていますが、思えば、そのほとんどの体験が、私のカウンセリングの先生のグループで行われています。
私にしてみれば、その先生のエンカウンターグループこそが、真実のエンカウンターグループであり、唯一のエンカウンターグループである…と思っていた時期が長かったような気がします。
10年以上前に、職場の関係で、確かTグループと題された構成的グループに参加したときには、あまりにも満足がいかなくて、その講師にガンガン噛みついたことを覚えています。
説明すんな!頭でわからせようとすんな!知りたいことは自分で学ぶから、早く体験させろ!
若かったなぁと思います。
先生のエンカウンターグループと私
私にとって、先生のエンカウンターグループほど、私を守ってくれるものはなかったなぁとあらためて思います。
その時間はとても純粋性が高く、私は私でいられ、私が私でいることをどこまでも応援してもらえるような感覚でした。
私が居心地の悪さを感じているとき(場の純粋性が下がるとき)には、先生がいつも動いて、純粋な場にもどしてくれた…わかりにくいでしょうが、そんな感じなのです。
グループにおける先生のいちいちの行動が、私を何度も助けてくれた…。
そんな体験を懐かしく思い出します。
先生のいないエンカウンターグループは、私にとっては安息の場ではありません。
だから、私はこれまで先生のいないグループにはほとんど参加しませんでした。
だけど、ここにきて、やっと私は、先生のいないエンカウンターグループに非常に関心をもっています。
それは、私自身がエンカウンターグループを主催する経験をもったこと、そして、先生から自立したがっていることが関係しているように思います。
【ゼロベースエンカウンターグループ】ゼロベースの2つのグループ
今回参加させていただいた2会場のエンカウンターグループは、それぞれのグループリーダーを含め、私以外のすべての人がエンカウンターグループの初心者、またはビギナーの場でした。
私がいつも参加しているような、エンカウンターの流れ、醍醐味を熟知した人が複数いる中でのワークではありません。
まさに、ゼロベースのエンカウンターグループ。
これは、私にとって、どんな要素が、そのグループをエンカウンターグループとして充分にさせるかを考える貴重な機会となりました。
エンカウンターグループに何を求めるのか?
エンカウンターグループは非構成のグループワークですが、グループのリーダーの非構成のとらえかたによって、そのグループの進行は大きく左右されるのは間違いありません。
エンカウンターグループと銘打っていても、誰も何にも出会えない、普段のお喋りの場とあまり変わらない場にすることもできます。
そういう意味では、今回のリーダーは2会場とも、エンカウンターグループという取り組みに、普段とは違う深み、本質、真実の交流を求め、そんな場を作ろうとしている感じがありました。
これは私にとってはありがたいことです。
私にとって心地の良い場が、世界に増えようとしているのですから。
非構成エンカウンターグループですから、グループのリーダーは、場の役割、機能を限定することを徹底して避けます。
これは、2つの会場のリーダーに共通した意識として感じられました。
その上で、このグループがより深く、本質的に、参加者にとって実のあるものになるにはどうしたら良いかという葛藤を抱えていました。
とても頼もしい葛藤、そして、非常に大事な命題だと思います。
【ゼロベースエンカウンターグループ】エンカウンターグループのコア
この辺りについて、今回の学習で私が学んだところを自由に書いてみようと思います。
まず、世の多くの人は、基本的に“語る”ということに慣れていません。
これまでの人生のなかで、語ることを許される場というのがほとんどなかったのですから、それも当然のことです。
世の多くの人は、自由に語るという経験を積み上げてきていない。
それが現実です。
語るという字は、吾、言、(われをいう)の文字で構成されています。
つまり、自分自身にフォーカスを当てたやり取りということですね。
語る人が現れないグループは、本質的な深まりを見せることはありません。
○○についての話を皆で延々としてしまい、次々と話題が変わり、参加者それぞれの人間に迫るような交流は生まれない。
そこに何の疑問もないけれど、どこかでうっすら寂しい、不満足感が流れている…。
それが日常です。
語る人の存在、エンカウンターグループの目的
しかし、語る人が現れるとグループは変わります。
ひとりの語りが触発を生み、感情を生み、どんどん自分を抑えられない人が出てくる。
私は、私は、私は…と語りたくなってくる。
自然と皆が、自分に出会いやすくなっていく。
エンカウンターグループは、自分との遭遇、自分と出会うということが1つの目的と言えるでしょう。
そして、もう1つの目的が他人と出会うということ、と言えます。
他人に出会うということの本質は、自分自身に出会っているその人を目撃することだと私は思います。
自分に出会えた時の感動の大きさはもちろんですが、自分に純粋に出会っている他人を見るときの心地よさも、かけがえのないものです。
語る人が生まれるためには?
エンカウンターグループが真実のエンカウンターグループに向かうかどうかは、語る人がいるかどうかにかかっている、と言えそうです。
それでは、語ることに慣れていない人たちばかりのグループで、どうすれば、語る人を生み出すことができるか。
ここが今回の私の学習の肝になります。
語り手を生み出すのは何か?
今の私には、それに対する明確な答えがあります。
それは…、
積極的な聞き手の存在です。
語ることに慣れていない人ばかりのグループでも、積極的な聞き手さえ存在すれば、その場は必ず語る場へとシフトしていきます。
人間は、語りたいのです。
人間は、聞いてほしいのです。
だから、積極的な聞き手が存在すると、自然と、身体が語るほうへと向かっていく。
これは、頭で考えてのことではありません。
身体の反応のレベルでおこる動きです。
人間は、積極的に聞いてくれる人がいる場では、語らずにはいられなくなる!
これは、1つの厳かな現実であると私は思っています。
さて、それでは、積極的な聞き手とは、どんな存在でしょうか。
誰かの発言を邪魔せずに、静かに見送っている人のことでしょうか?
そうではない!
それは、誰かが声にした言葉にふれてくれる人です。
それは、誰かが声にした言葉を撫でてくれる人です。
1言でもいい。1単語だけでもいいのです。
誰かの言葉をそのまま、聞こえたままに自分の声にしてくれる人。
それが、語り手を生む存在、積極的な聞き手なのです。
【ゼロベースエンカウンターグループ】おわりに
ロジャーズが後世に残した革新的な取り組みは、このエンカウンターグループとカウンセリングのロールプレイだと言われていますが、そのどちらも時代的には廃れてしまっているという感覚を私は思っています。
情報社会、速度と一般化に支配された世界…。
しかし、それとは対極の世界はまだ、ここに残っている。
体験学習、徹底した個別化、人それぞれの歩みを支えることに全身全霊がかけられた取り組み。
私としては、すでにそれらを伝え残していく立場にあるのかもしれないなと思えてきました。
私はいくつか、真実の体験学習の場を紹介できます。
また、私は、これから真実の体験学習の場を作っていきたい人をゼロベースから手伝えます。
興味のある方は連絡してください。
黒田明彦
P.S じゃすまーさん、鴨志田さん、お世話になりました。また、どこかで私の毒をもらってください。