死について語ることはいけないことだと思うんだ。
こわすぎるし、生きている人は誰も死んだことがないのだから、考えてもわからないわけだし。
だけど、死を考えることができないと、生を考えることもできない気がする。
これから、ビクビクしながら、ほんの少しだけ、今の私の死生観と積極的傾聴を語るね。
死はタブーなんだ

死はタブーなんだ。
人の死について話題にあげることはタブーだ。
死は誰にとってもこわすぎる。
死は誰にとってもわからない。
だからむやみに扱ってはいけない。
他人に対し、死という考え方について刺激することは、やってはならないことだ。
そして、他人が死にたいと言ったら、なんとしても止めなくてはならない。
人間にとって生は正義であり、死は悪であるべきことのようだ。
自ら、死を選ぶなんてことは決してあってはならない。
死は許可してはならない

死は、許可してはならない。
社会は、政治は、道徳は、宗教は、個人は、それを殴ってでも止めなくてはならない。
「もう死にたいです、死んでもいいですか?」
という問いに、「いいよ。今までよく頑張ったね。」
と、答えては決してならない。
絶対に、絶対に答えてはならない。
それが私が感じている常識だ。
死は救いなのか?

ずっと私の頭の中にある、フワフワとした感覚。
「死とは救いではないだろうか?」
死とは何か。
私にとって死とは、無に還ることに他ならない。
それは、苦しみからの完全な解放であり、執着からの完全な解放でもある。
生きているうちは、苦しみと安堵のループを常に、常に繰り返す。
どんな安堵も、次の苦しみに繋がっている。
どんな苦しみも、次の安堵に繋がっている。
2つは分かちがたく、輪廻のようにグルグルとまわる。
感受性が強ければ強いほどに、苦しみと安堵の輪廻にバタバタに打ちひしがれる。
「もう嫌だ、助けて欲しい。」
そうやって、その輪廻から完全に脱したいと思うのは自然なことのような気がしてならない。
苦しみと安堵の輪廻から完全に開放されるには、無に還ることの他はないように思う。
死にたい、消えたいという言葉は、苦しみと安堵の輪廻から一刻も早く、完全に解放されたいという強い願いからやってくるのではなかろうか。
その願いは、私にも確かにある。
苦しみと安堵は輪廻する

これまで、何度、苦しみから救われる言葉が私のもとへやってきたことだろう。
私は、その度に安堵した。
しかし、しばらくすると、またじんわりとした苦しみに襲われるのだ。
どんなに救われても、苦しみが終わらない。
そして私は、繰り返し苦しみがやってくるたびに、安堵の言葉が私に向かってやって来るのを求め、必死に言葉を語り続けるのである。
それでも私は生かされている

終わらない輪廻。
しかし、それでも私は完全な意味で死にたいと思ってはいないようだ。
私は死にたいし、消えたいが、同時に、私は死にたくないし、消えたくないのだ。
リアルに自分が自分の生命を終わらせようとする場面を思い浮かべると、身震いする。
ガクガク震えてしまう。
そんな自分に、ホッとしている。
私は今日も生かされている。
私は今日も生かされるより他ない。
そして、今日も今日とて、私を安堵させようと、どこからか言葉がやってくる。
生死、小さな無、小さな死

苦しみと安堵の輪廻から解放されたければ、小さく無になればいい。
それはすなわち、生きながら、小さく、何度も死ねばいいということだ。
小さく無になることができれば、小さく死ぬことができれば、束の間、苦しみと安堵の輪廻からは解放される。
小さな無、小さな死とは何か?
それは単純に、我というものを失っている状態のことだ。
我を失っているときは、苦しみも、安堵も存在しない。
時間をぶっ飛ばせ

小さな無、小さな死とは、何かに没頭し、時間がふっ飛ぶ、あの感覚のことだ。
気が付いたら3時間が経っていた。
「あれ?もう、こんな時間か。」
「いつもいつも、時間が足りないなぁ。」
このような感覚だ。
何かに我を失うほどに没頭できているとき、人間は、小さく無になり、小さく死んでいる。
このときは、苦しみと安堵の輪廻から解放されているようだ。
苦しみと安堵は廻る。
それから、救われるには、小さな無、小さな死が必要だ。
それは、この苦しみと安堵の輪廻の中で、束の間の死を生きるということなのかもしれない。
それでは生(せい)とは?

それでは、生(せい)とは何か?
この苦しみと安堵の輪廻の中で、生(せい)を生きるとはどういうことか。
それは、この苦しみと安堵の輪廻を受け入れ、それを絶えずグルグルとまわことだ。
苦しみと安堵の輪。
救われきることはないことをわかっていながら、苦しいときに安堵を目指して、ただ必死に輪を回すと言うことだ。
足掻く。
それが、完全な安堵への道ではないとわかっていても、ただ輪をまわす。
今が苦しいのなら、どうにかしてその苦しみを逃れようと足掻くこと。
その動きが生(せい)そのもの。
自分自身の苦しい今を、絶えず救い続けようとする動きそのもの。
それが生(せい)だ。
苦しみと安堵の輪廻を絶えず回し続けること。
それこそ、生(せい)そのものなんだ。
積極的傾聴の役割とは何か?

いつも考える。
積極的傾聴は何を救ってくれるんだ?
積極的傾聴を学んでいれば、いつかは救われるのか?
結論から言えば、どんなに積極的傾聴の学習を積み上げていっても、完全に救われるということはない。
苦しみと安堵の輪廻から完全に救われるには、完全な無になるしかない。
それは、人間の力ではできない。
それでは、積極的傾聴は意味がないのか?
いやある。
苦しみと安堵の輪を上手に回せるようになるための学習

苦しみと安堵が車輪のように回るのが生(せい)だ。
積極的傾聴は、その輪を回すのが上手になるための学習なんだ。
積極的傾聴の学習は、苦しいときに、必ず安堵の言葉がやってくることを学ぶ学習。
どんな苦しみも、いつかは安堵に転がることを信じることができるための学習。
そして、苦しいときに、自分を救う言葉がやってきやすくなる学習なんだ。
例えば、他人の言葉でも自分の苦しみが、安堵に転がることはある。
しかし、またすぐに苦しみはやってくる。
そのとき、また他の誰かの言葉を求め彷徨うのか?
積極的傾聴は、今の苦しみから、次の安堵に向かう時、他人にではなく、自分自身にやってくる言葉を頼れるようになる学習なんだ。
苦しみと安堵の輪廻を自らの言葉で回せるようになる学習。
それが、積極的傾聴学習だと思うんだよ。
苦しいとき、自分を救う言葉が必ず自分にやってきてくれる。
それを信じて、ただ語れる人になるための学習。
それが積極的傾聴だと私は思うんだよ。
黒田明彦