今回は、「積極的傾聴は聞くだけだから無意味?積極的傾聴の本質とは」ということで書いていきます。
ここで言う、積極的傾聴とは、カール・ロジャーズの提唱した来談者中心療法を綺麗に踏襲している積極的傾聴のことです。
積極的傾聴に期待することってなんだろう?

日本に住んでいる人の多くは、困ったとき、辛いことがあったとき、心が苦しいときに、積極的傾聴を頼ろうと思いつく人は、あまりいないのではないだろうか?
「積極的傾聴って心の病気になってしまった人が受けるものでしょ?」
だけど、心の病気になってしまったら、日本では第一優先で選択するのを進められるのは精神科なんだ。
そして、精神科というのは、心に効く薬を処方してくれる場所だと言い切ってしまって過言ではない。
つまり、日本人は心が病気になってしまったときは、薬で治すというのがセオリーなんだ。
積極的傾聴は心の病気になる前に利用するもの?
心の病気になる前に、心を鍛える手段として、聞くだけの積極的傾聴を活用しようとする発想のある人がどれほどいるだろうか?
病気になりにくい心にするために、自分の心を柔らかくし、自分の本来持っている心の自己治癒力を活性化させる。
積極的傾聴って本来はそういうものだと思うんだ。
聞くだけの積極的傾聴は心を治すというよりも、心を成長させるもの

積極的傾聴に行くと、積極的傾聴者がいろいろと施術をしてくれて、心を癒してくれる、治してくれる。
傾聴者の言った通りのカリキュラムをこなせば、元気になれる。
積極的傾聴をそういう場であるべきだと考えていると、積極的傾聴を受けてもガッカリしてしまうことだろう。
傾聴者が、その専門的な配慮によって用意してくれるのは、安全安心な状況であり、語り手が自分自身の感性と向き合える場所だ。
そこで行うのは、徹底して自分の言葉と向き合うことであり、それによって自己理解を深めること。
自己理解というのは、正しく出来れば出来るほど、それだけで癒しの効果がある。
傾聴者が語り手を癒してくれるわけではなく、語り手自身の言葉による気づきが、語り手を癒し、語り手に自信を与えるんだ。
自己理解、心の成長による自己治癒能力の解放

自己理解、心の成長による自己治癒能力の解放。
それが積極的傾聴の目的と言えるだろう。
たとえ、今なんらかの施術によって、困難を解決し、気分が良くなったとしても、これから先の人生で、いくつも新たな困難は待ち受けている。
その都度、何度も何度も苦しい思いをするんだ。
そんな困難を心を病まずに突破するのに必要なのは、心の自己治癒力なんだ。
心の自己治癒力さえついてしまえば、どんな困難に出会っても、心の病気になりにくくなる。
病まない心、立ち上がれる心、学べる心になっていくための修行の場。
それが積極的傾聴だと考えると、私は経験的にしっくりくる。
傾聴者のケアは、極まるとキュアになる

傾聴者が提供するのは、あくまでキュアではなく、ケアなんだ。
つまり、治療ではなく、徹底した専門的な配慮だな。
しかし、ときにこの専門的な配慮が、治療効果を生むこともある。
傾聴者には治療をするつもりがさらさらなくても、傾聴者のおかげで癒されたと感じる語り手は沢山いるということだ。
ちなみに、他の誰かに癒されることを人生の目的にしていない語り手ほど、積極的傾聴時に、傾聴者によって癒されたと感じやすい。
このあたりが面白いところだ。
積極的傾聴で癒されるときってどんなとき?

積極的傾聴で心が癒されるときは大体2つのパターンがある。
1つは、自己理解が進むときだ。
積極的傾聴で自己理解が深まると癒される
今まで感じていた自分とは違う自分に出会えた時。
感じていたけど、自分で認められなかった気持ち、感情が自分で認められた時。
モヤモヤしていた不快感がはっきり言語化できたとき。
そのような、自己理解ができたときは、心がやけにスッキリして軽くなる。
これは、癒しという言葉よりも、活性化という言葉が近い。
もともとの気が戻ってくる感じ、元気になる感じだ。
積極的傾聴は感情の浄化で癒される

もう1つは、感情の浄化だ。
カタルシスと言えるほど深く強烈な感情の浄化は、なかなか起こることでもないのだが、それが起きたときは、非常に強い癒しの効果が生まれる。
誰かに感情を聞いてもらえたとき、どこかホッとした経験があるだろう。
積極的傾聴は、あれのプロ版だ。
苦しい、悲しい、辛い、許せない、我慢できない・・・。
人間には、ときに、1人では到底味わいきれない感情が生まれるときがある。
そして、それらは、普通の人間関係では、受け止めてもらうことを期待するのは相当難しい。
しかし、傾聴者の専門的な配慮のもとでなら、それらの感情は、なんとか表出することができる。
重く、鋭い感情は、1人では受け止められなくても、2人でなら受け止められる。
そして、どんなに重く、鋭い感情も表出され、受け止められさえすれば、流れていってくれる。
世界が変わる

ずっと、ずっと、つっかえていたもの。
心に、身体に滞留していたマグマのようなエネルギーが一気に排出され、まさに浄化(カタルシス)される。
それは、本当に劇的な経験だ。
私も経験があるが、マグマのような感情エネルギーが、つっかえていたときと、排出、浄化されたあとでは、人が変わってしまうのだ。
見える世界の色すら変わることがあるほどだ。
私たちの世界は、自分の心によって大きな影響を受けているのがよくわかる。
自己治癒力は指示的アプローチではなかなか伸びない

自己理解を深め、自己治癒力を高めることや、人が変身してしまうほどのカタルシスが起きるような状況は、施術者主体のアプローチはあまり期待ではない。
そもそも、傾聴者のもとに助けを求めてやってくる人は、自己治癒力が弱まっている。
そのような人に、どんなに丁寧に施術者側の指示的なアプローチをかけても、その人の自己治癒力が本当の意味で伸びることはない。
自己治癒力によって支えられた人間ではなく、施術者の指示や、メソッドによって支えられる人間ができあがってしまうだけだ。
ここがすごくシビアなところなんだ。
とりあえずの効果ではなく、本当の効果。
どこまでこれを追及できるかで、その施術者のスタイルは決まってくる。
とりあえずの効果で良いと思えるなら、その手法はどんどん指示的になり、お手軽になり、印象が軽く、そして人当たりも良くなる。
本当の効果を追求するなら、その手法は徹底的に非指示的になり、重厚になり、どちらかというと人を選ぶ形になる。
「別に完璧に近い最新のメソッドなら、自己治癒力よりも、そっちに頼ったほうが楽じゃね?」
この考え方もわからんでもない。
「自己治癒力を高めることができれば、どんな状況下でも、自分自身でメソッドを作ることができる」
これに私や君が、どれほど価値を感じるか?ということだ。
積極的傾聴は聞いてくれるだけでしょ?って言うけれど

積極的傾聴。
聞くだけ。
聞くだけ・・・ね。
この「聞くだけ」という言葉を聞いて、まず思いうかぶところは、人間は自分がどれだけ聞いてほしがっているかということをなかなか自覚できないらしいということだ。
自分を自由に語り、それがそのまま受け入れられる。
ただ、自分の言葉のすがたを受け止めてもらうという体験。
これがどれほどステキで、どれほど身体や魂のレベルで求めて止まないことであるかということを、人間は忘れてしまっている。
聞いてもらう。
自分の言葉を。
自分の生命を。
まず、その重厚な経験をしたことがある人自体が少ないんだろうと思わざるを得ない。
「人間は、聞いてもらいたくて生きているんだぜ?」
そんな極端な言い方をしても、私には特に抵抗はないくらいだ。
積極的傾聴の難しさ

積極的傾聴。
これを成立させることがどれほど難しいことか。
聞いてほしいのは、傾聴者も一緒なんだ。
だから、積極的傾聴の場面でも、ついつい聞くだけではいられなくなる。
これって、身体レベル、魂レベルで引っ張られちゃうぐらいの強い衝動なんだ。
私も大分修行してきているが、聞くだけで終わる積極的傾聴をできたことなどほとんどない。
いつも、相手の邪魔をしてしまう。
純粋に積極的傾聴を提供することが、どれほど難しいことか。
ほんとなんだよ。
あたかもその人のようになって、その人の世界にそのまま寄り添うということが、どれほど難しいことか。
聞いたフリだけをするならそんなに難しくないんだけどな。
積極的傾聴は無意味?積極的傾聴の本質とは、おわりに

「積極的傾聴は聞くだけだから無意味?積極的傾聴の本質とは」ということで書いてきた。
「聞くだけ」この言葉には全くもって深みがある。
本当の傾聴者は「聞く」ということがどれほど難しいかということを何十年も噛みしめながら生きている。
そして、「聞く」ということの素晴らしさを誰よりも知っている。
だから「聞くだけ」という言葉を聞くと、「あぁ、この人は聞いてもらったことがないんだなぁ」と少し寂しくなる。
聞いてもらいたいという欲求は、自分になりたい欲求。
聞いてもらいたいという欲求は、もっともっと生まれたいという欲求。
その欲求に多くの人が覚醒したとき、「聞くだけでしょ?」って言葉はきっとどこからも聞こえなくなってくるだろう。
「私を聞いてほしい。」
「私を聞いてもらえますか?」
私は、そんな言葉が世界に溢れることを願っている。
その世界、絶対生きやすいと思うんだ。
黒田明彦。