積極的傾聴という言葉で私がずっとやってきた学習がある。
これまで19年の間、私が積み重ねてきた積極的傾聴の学習は、心理学ベースの積極的傾聴ではなく、東洋思想ベースの積極的傾聴なんだ。
これから私の東洋思想的積極的傾聴を紹介していく。
東洋思想は、誰にでも気軽にできる簡単な方法とか、そういう感じではない。
それは、ひとりの人間が、ひとりの人間として、自分の実感を、感覚を、感性を、真実に向かって突き詰めていく道の一端である。
奥深くて、純真で、どうにもならないほどの重さがある。
そのどうにもならないほどの重さが必要な人というのが、世の中には一定する存在するんだ。
私の積極的傾聴は、そういう人達に届いてほしいと思うのである。
東洋思想の積極的傾聴学習とは?

否定の言葉、苦しみの言葉、嘆きの言葉、悩みの言葉が、どんどん、どんどんやってくる。
そんな人が、それらと向き合いながら、より人間としての深みに向かっていく。
東洋思想の積極的傾聴学習とは、そんな学習だ。
だから、日々ハッピーで、悩みもなくて、幸せに暮らすことができている人にはあまり必要があるものではない。
疑問もなく、生きづらさを感じず、この世界にフィットしていると感じている人には、東洋思想の積極的傾聴は必要ない。
もう生きづらくて、生きづらくて、自分が嫌いで嫌いで、毎日が苦しくて苦しくてしょうがないっていう人が救われていくための道。
それが東洋思想の積極的傾聴だ。
事実を事実として見る学習

東洋思想の積極的傾聴は、事実を事実として見ることができるようになるための学習だ。
そのためには、ある程度、科学的思考を手放さなくてはならない。
自分を救う方法を自分の外に求めたり、他の誰かが救われた方法で自分を救おうとするのは、ある程度あきらめなくてはならない。
一般化された方法では、救われないほどの深い苦しみっていうのは存在するんだ。
そういう苦しみに出会えた人こそ、東洋思想の積極的傾聴の学習が必要になる。
そして、東洋思想の積極的傾聴の学習は必要な人にしか続けられない。
東洋思想の積極的傾聴、自分の言葉に出会う

東洋思想の積極的傾聴の第一歩目は、自分の言葉に出会うということだ。
これは、科学的ではなく、感覚的な表現なので、なかなか了解してもらいにくいかもしれない。
東洋思想の積極的傾聴は、自分の言葉を聞いていくための学習だ。
自分に向かって、やってきている言葉に、よりはっきりと出会っていくための学習だ。
私たちは、どこからか自分に向かって、たえまなくやってきている言葉によって、救われていくしかないんだ。
東洋思想の積極的傾聴者とは

東洋思想の積極的傾聴者は、自分自身の言葉をそのままに聞ける人のこと。
そして、相手に聞こえてきている言葉が、ちゃんと相手に届くようにと手伝う人のこと。
東洋思想の積極的傾聴者は、人間の一般的な困りごとを解決するための一般的な方法を教えくれる人の事ではない。
そういうやりとりでは、どうしても救われきれなかった人が、東洋思想の積極的傾聴者をやっている。
東洋思想の積極的傾聴は、そんな人が求め求めてきた道なんだ。
東洋思想の積極的傾聴者というのは、その人(語り手)に向かってやってきている言葉をその人(語り手)がしっかりと味わい、それによって救われていくことを助ける人なんだ。
東洋思想の積極的傾聴者はとにかく言葉を大事にする

言葉とは、人間の生命そのものである。
生命は言葉に宿り、言葉は生命に宿る。
言葉は自分の力で生み出しているものではない。
人間にはそれぞれ、言葉がやってきている。
自分には自分の言葉がやってきている。
他人には他人の言葉がやってきている。
それに気が付けるかどうか。
どこからか私に向かってやってくる言葉を、ただ私は聞いているだけである。
東洋思想の積極的傾聴にとって、自分に聞こえてきている言葉と、相手に聞こえてきている言葉が違うものだと実感できているかどうかはとても大事なことだ。
東洋思想の積極的傾聴は、この実感を人生を懸けて身につけていく道である、と言っても過言ではない。
言葉がやってくるという感覚

東洋思想の積極的傾聴にとって、とても大事な、言葉は私に向かってやってくるという感覚。
これは、「へぇ・・・。」と、頭で理解したところで、何の意味もない。
この感覚に出会ってみたければ、語ってみればいい。
とにかく、何も考えずに語ってみるんだ。
そうすれば自然と感じられる。
考えずに言葉を声にできる自分の不思議さ。
何で自分にこんな言葉が言えるんだろう?
普段考えてもいないことが言えた。
いつもの私じゃないことが言えた。
そんなふうに感じられるときがきっとある。
その感覚だ。
言葉がどこからかやってきている。
まさに、言葉が語っている。
そんなふうにはっきりと実感できる。
なぜそうなるかはわからない。
ただ、確かな実感がある。
自分の身体で感じるんだから疑いようがない。
感覚的、というのはそういうことである。
言葉は神であり、仏
言葉は気づき、言葉は認識、言葉は感情、言葉は創造主、そして言葉は救い手。
人間は言葉がなければ何も見ることも、聞くことも、感じることはできない。
人間は言葉がなければ生まれることができない。
この事実に到達することがまず大変だろう。
人間になるということは、言葉に出会うということだ。
東洋思想の積極的傾聴者は聞いてくれるだけ?

どんな偉い積極的傾聴者のアドバイスだって、それは、その積極的傾聴者にやってきている、その積極的傾聴者のための言葉だよ。
アドバイスを言う積極的傾聴者は、ただ、積極的傾聴者自身にやってきている言葉を聞いているだけ。
それでも、なんとかなってしまう関係もあるだろうけどね。
一般的な悩みならそれで十分という人も、結構いるかもしれない。
だけど、本当に個人的で、重くて、どうにもならないところに追い込まれている人にとってはどうだろう?
その人はね、他の誰かの言葉を聞いている余裕なんて微塵もないんだ。
ただ、自分の言葉が聞こえてこなくなるほど辛いのに、他人の言葉なんて聞いていられるわけがない。
東洋思想の積極的傾聴者は、ひたすらに相手に来ている言葉に関心を寄せることができる人なんだ。
その人に向かってどこからかやってきている、その人にしか聞こえない言葉に、とにかく関心をはらい、聞こうとする。
どんな、アドバイスにも応えられず、変われなかったその人の、その人自身の言葉を必死に聞こうとするのが、東洋思想の積極的傾聴者なんだよ。
それってなかなかできないことだし、すごいことなんだよ。
東洋思想の積極的傾聴者は、それを地道に訓練してきている。
東洋思想の積極的傾聴者はね、君にしか聞こえていない言葉を、一緒に聞こうとしてくれるんだよ。
これまで、誰とも分かち合えなかった、君にしか聞こえていない言葉を、分かち合える。
たった独りの君のところを聞いてくれようとするんだよ。
それが、どれだけ嬉しいことか。
それが、どれだけ頼りになることか。
それが、どれほど力になることか。
この感覚ね。
聞いてくれるだけ?
違うよ。
君はまだ、ほとんど誰にも、君だけの、君にしか聞こえていない言葉を聞いてもらったことがないんだよ。
だから、聞いてもらえる有難みに疎いだけなんだ。
聞いてくれる人が必要なんだ

他人が提示する一般的な答えに自分を当てはめようとしているうちは、なかなか自分の言葉は聞こえにくい。
本当に苦しいときに必要なのは、自分にだけに聞こえてきているその言葉にしっかりと耳を傾けることなんだよ。
自分にだけに届いてきている、自分の言葉。
これ、本当、自分にしか聞こえてきていないんだよ。
そして、その自分にしか聞こえてきていない言葉を確かめるには、もう一人の人間がどうしても必要。
聞いてくれる人、東洋思想の積極的傾聴者が必要なんだ。
もう一人の人間が一緒に聞いてくれる。
多分これはね、誰にでも、そうそうやってもらえることじゃないんだよ。
みんなそれぞれ、自分自身の言葉を聞くことで精いっぱいだから。
というか、みんなそれぞれ、他人に、自分と同じ言葉が聞こえてきていると思い込んでしまっているから。
相手に聞こえてきている言葉にひたすらに耳を傾けるということが、皆、基本的にはできないんだ。
だから孤独であり、だから不幸せなんだ。
その孤独と不幸せに気が付けるなら良い。
事実を欲して、歩き出すことができるから。
だけど、その孤独と不幸せに気づくことすらできないとなると、いよいよ世界はつまらなくなってしまう。
どんどん人間が物になっていってしまう。
客観的、科学的に解明可能な、物になってしまう。
私はそれが嫌なんだ。
その生きづらさ、大事にしてみないか?

息苦しくないかい?
自分から距離を置くような生き方。
自分と離れ離れになってしまうような生き方。
自分を物のように捉える生き方。
その生きづらさこそ、人間らしさだと思うんだ。
今君が生きづらいのは、君が人間らしいからなんだよ。
東洋思想の積極的傾聴その人間らしさに直接アプローチしていくような学びなんだ。
だから面白い。
だから奥深い。
だけど、とっつきにくくて、難しく感じやすい。
「もっと人間になりてぇよ。」
そんな欲求に出会っている現代人。
そんな人たちにとって必要なのが、東洋思想の積極的傾聴なんだ。
東洋思想の積極的傾聴、人間になるための学習、おわりに

東洋思想の積極的傾聴。
それは、ロジャーズの積極的傾聴と、仏教やらなにやら東洋人が脈々と受け継いできている智慧の結晶の融合。
どこかこの世界に生きづらさを感じている人の為の積極的傾聴。
だけど、全然お手軽ではない。
深く重く、真実を求めていくような人生の学び。
それが必要な人にしか続けられない学び。
「そんな人いるの?」
いるんだよ。
深みに呼ばれて呼ばれて仕方ない、とても苦しい世界を生きている人たちが。
歴代のそんな人たちがこぞって智慧をしぼってできあがったのが、東洋思想なんだ。
だから、きっと君も気に入るよ。
重く深いところに一緒に行こう。
黒田明彦でした。
私のエネルギー、もらってね。