自己否定に苦しむ君へ。
本当の人間尊重を目指す私から、ささやかな哲学を贈るよ。
自己肯定は頼りない
自分を肯定する。
他人を肯定する。
他人を肯定するには、まず自分を肯定しなくてはならない。
頼りない。
自分で自分を肯定するとか、自分で自分を褒めるとか。
自分の意思で、自分の価値観で、自分の感情で、自分を価値づける。
なんか、そういうのって、ただの思い込みじゃないかなと思えて仕方がない。
自己否定の方が得意なんだ
私は、自己肯定よりも、自己否定の方が得意なんだ。
だって、何も考えずに、何も頑張らずに、何も操作しなくても、否定の言葉は勝手に浮かんでくるから。
逆に肯定の言葉は、自分で無理に操作しないとやってこなかった。
その無理が頼りなくて仕方なかった。
その無理が嘘に感じて仕方がなかった。
否定の言葉がやってくるのが自然な自分。
そんな感じだった。
比べようがないってさ

積極的傾聴の先生によく、「人間は比べようがないんだよ・・・。」と聞かせてもらった。
そんなことあるもんか。
私は、これまで自分と他人を比べて比べて苦しんできたし、良い思いもしてきた。
他人にも自分と他人を比べられてきたような気がする。
大体自分って、他人と比べることで生まれてくる、相対的なものではないのか?
他人との違いを見つけることで、やっと自分を認識できるのではないのか?
そもそも、他人と違う自分になるために、自分を否定しているのではないのか?
自分は他人と比べて、価値が低い、価値がないと感じることで、自分自身を存在させているのではないか?
そんなふうに感じられて仕方がない。
消えたい、いなくなりたい。
そんな言葉がやってくる夜は何度も来る。
だけど、消えたいのは、いなくなりたいのは、相対的な自分なのかもしれない。
相対的世界観

この世界は、相対的な世界観で満たされている。
相対、相、対する世界。
相対的世界というのは、簡単に言えば、比べることで成り立つ世界だ。
比べることで物事の価値が決まっていき、それによって発展している世界。
主に科学的思考の世界。
AよりBの方が長い、重い、赤い、高い、強い、柔らかい、暖かい、など。
比較によっていろいろな概念が生まれてくる世界。
この相対的世界は、すべての存在を客観的に規定できる物としてとらえていくことができる。
人間だって物として、規定できて、わかってしまえる世界。
人間が、私が、他人が、規定出来て、わかってしまえる世界。
人間そのものよりも、規定、比較的価値が大事になっている世界とも言える。
相対的世界は物質的に繁栄する
この相対的世界では、やたらと物質的文明が発達できる。
いろんなことをバシッバシッと決定し、共通規格を持ち、再現性を証明していくことは、物資的な世界の発展の肝だ。
この相対的世界の物質的発達のお陰で、今私たちは、冬でも食べ物に困ることがないし、車に乗ったり、飛行機に乗ったり、沢山の種類の中から洋服を選んでオシャレをすることができる。
相対的世界は、物質的に非常に豊かになれる世界だ。
しかし、反対に精神的には貧しい世界だ。
共通規格によって自分が決まり、他人が決まり、自分と他人を比べることが当たり前にできる。
自分をわかりきった物のように扱うことが当たり前になっている。
自分がどんな存在かを決めてしまうことが簡単になっている。
決まった自分と決まった他人を比較して、勝ち負けが発生する。
そして、勝たなければ自分を肯定することはできない。
だって、実際に差が発生するわけだから。
そして、そこに相対的に優劣がつくわけだから。
優劣の劣を肯定するって、相対的には嘘でしょ。
だから嘘をつけない人間ほど、自分を肯定できないのが当たり前になっていく世界。
正直な人ほど、自分を否定できてしまうのが当たり前になっていく世界。
私はあなたと比較して優れているから肯定できる存在である。
相対的世界ではそういう人間尊重しかできない。
インターネットで私より優れている人を見るたびに、私が消えたくなるのは、大体これが理由だ。
相対的世界では、真の人間尊重はできない

今の社会は相対的価値観で溢れている。
ここでは、真の人間尊重は難しく、心が苦しくなっていくのだろう。
価値というものは比較でしか生まれない。
価値というものは相対的にしか生まれない。
価値によって優劣が決まる世界で、人間尊重は難しい。
相対的世界観では、真の人間尊重は不可能だと言っても良いのだろう。
もし、本当の意味で人間尊重をしたければ、もう一つの世界観をいつかどこかで学ばなくてはならない。
本当の意味で、人間尊重をしたければ。
もう一つの、始まりの世界
本来は、こっちの世界から始まっているんだ、そして、あとから、相対的世界の方を学んでいくっていう運びになるはずなのに。
生まれてすぐに、こちらの世界は忘れてしまって、相対的世界の方を当たり前に身につけていく。
そしてもう一つの世界は、初めからなかったかのように、すっかり忘れてしまうんだ。
だから、本気で自分を尊重したい現代人は、もともと持っていた世界観を、今は忘れてしまっている世界観を、必要に応じて学び直さなければならないようだ。
その、本来持っていたが、相対的世界観に溢れる社会の中で、すぐに忘れてしまった世界観。
それが、絶対的世界観だ。
この世界観が、真の人間尊重には、絶対に必要なんだ。
絶対的世界観

絶対的世界。
こんな世界があるんだ。
絶、対。
対が絶える世界。
ここでは、比べることが全くできない。
全てが、唯一。
相対的世界に馴染んでいる私たちには、なかなか実感しにくい世界だろう。
絶対的世界は、とにかく、比べることが不可能な世界なんだ。
それぞれ1つ1つの存在が完全に独立してしまっていて別。
道端の石ころだって絶対。
同じものなどない。
虫だって、鳥だって絶対。
同じ存在がない。
全てが別。
全てが独立した絶対的存在。
先生が言っていた、「比べようがない」というのは、この絶対的世界のことだったんだ。
比べるということが完全に否定されている世界
絶、対。
ここには、共通規格ができないから、科学が通用しない。
だから、物質的文明が発達しない。
絶対的世界が、社会の中心だったら、明日食べる物すら保障されないだろう。
冬は凍えるほど寒いし、夏は死ぬほど暑いまま。
食べ物も、寝る場所も、着る服も、お金を出しただけでは確保されないだろう。
なんとも便利じゃない世界だ。
だけど、精神的には豊かなんだ。
全ての人間、全ての存在が独立しているものとして捉えられるのが当たり前であり、全ての存在に比類するものがない。
ただ、在る。
それだけで、十分に、完全である。
在ること、それだけで、完全に尊重される世界。
すべての存在に比較対象が存在できないんだから。
比較できないんだから。
対がないんだから。
尊重しかない。
尊重しかできない。
尊重しか選べない世界。
存在=尊重としか言いようのない世界。
在るということは、すでになにものとも別である。
在るということは、それだけですでに尊重されているのである。
想像できるかい?
そういう世界観。
想像できるかい?
今、在るということが、そのまま尊重とイコールの世界。
そんな、絶対的世界が。
繰り返すが、今の私たちの社会は相対的価値観で溢れている。
比べることで、なりたっていることが多すぎる。
比べることで、決まってしまっていることが多すぎる。
絶対がなくなることで、成立している世界。
いや、絶対を忘れることで、最高に便利になっている世界。
君よ、絶対的世界を思い出せ

もし君が今、この相対的世界に苦しみを感じて感じて、しかたがないのであれば、君が本来生まれた世界、絶対的世界を思い出すと良い。
間違いなく君は、この世界でたった独りの存在だ。
なにものとも別の存在で、なにものとも比べられない存在。
絶対的存在。
それを思い出すことができれば、そのまま自重になる。
自分尊重になる。
たった独りの人間になること。
いや、たった独りの人間であると、思い出すこと。
これ以外に真の自分尊重はない。
そして、そんな真の自分尊重に目覚めることができれば、今度は、全く別の存在である誰かを本当の意味で尊重できるようになる。
全く別、比類なし、在るだけで完全なる存在である、他人。
そんなふうに他人を尊重できるようになるだろう。
自己否定に苦しむ君よ。
絶対的世界を思い出すんだ。
たった独りの人間という「自分」を思い出すんだ。
何もわからぬままでいい、ただ、ただ、比べることを拒絶せよ。
全身全霊で、君の全てのエネルギーを動員して、比べることを拒絶してみよ。
相対的世界観に溢れる社会において、絶対的世界観を生きてみるんだ。
きっと、毎日がステキになるよ。
黒田明彦