未来のために今があるなんて、苦しすぎるなって思った話。
だから、世界をひっくり返してみたんだ。
「今」を考えるに至った私

自己否定が苦しくて、どうにも追い詰められた時、「もう駄目だ!」というところで自分を愛することに決めた。
意味など分からぬまま、誰に教えてもらったやりかたでもなく、ただただ、自分に向かって愛の言葉を贈り続ける習慣をもってみた。
言い慣れなかった、聞き慣れなかった、「愛している」という言葉を毎日毎日飽きるほど自分に贈り続けた。
やってみると結構悪くない。
心なしか、いや、大分、自分を責める言葉が少なくなっているような気がする。
自分に愛の言葉を贈り続ける
ずっとずっと繰り返し愛の言葉を祈り続けているから、ふいに「愛している」という言葉が頭の中に意味もなく浮かぶことがある。
不思議なものだ。
他人を愛してみたくなった

人間は欲深いもので、「愛している」という言葉を自分に贈り続けたら、今度は他の誰かを愛してみたくなった。
愛が足りなくて、愛してもらいたくてしかたなかったのに、なんか、どうにかして他の人を愛せないかと思うようになったんだ。
だから、今度は他人に向かって、愛の祈りを贈ってみた。
でも、結局続かなかった
しかし、それはうまく習慣化されなかった。
自分に向かって愛の言葉を贈るときは、自分に愛の言葉は聞こえている。
だけど、他人に向かって愛の言葉を祈っても、それは声や文字にしなければ、伝わらない。
身近だったり、関係がうまくいかなかったりで、愛が必要な関係程、愛が贈りにくい。
これじゃ、ダメだなって思ったんだ。
だって、身近な人には、愛の言葉よりも憎しみの言葉の方が浮かんできやすいんだもの。
たった独りの人間観

というわけで、私は他人を愛するために「たった独りの人間観」を深めようと思った。
「たった独りの人間観は」簡単に言えば、宇宙最強のバウンダリー思考だな。
この人間観が深まらなければ、本当に他人を愛することはできない。
最近の愛の祈りと、たった独りの祈りの中で思ったことは、
お互い、もう本当に、完全にわかりあえないことをわかりきってしまった二人の静かな関係こそ「愛」じゃないかと思う。
愛しているよ。
今が必要になってきた
1、自分に愛を贈り続ける習慣をもった。
2、他人を愛するために、たった独りの人間観を深める習慣をもった。
なんか、どんどん、日々が祈りで忙しくなっていく。
まぁ、大事なことだ。
それでも、私の苦しみはまだまだ終わらない。
なんか、今の私、愛だけじゃ、私を未来から守れないみたいなんだ。
愛だけじゃ、私を未来から守れない

愛だけじゃ、私を未来から私を守れない・・・。
そんな感覚がある。
ここ最近、ずっと私を苦しめていたもの、それが未来だ。
私は、未来の自分を想像しては苦しみ、悶える。
今は別に何の不自由もないが、このままいくと未来の私が危ない。
未来のために今の私を犠牲にしなくては
私は未来の私のために、的確に今を犠牲にしなくてはならない。
それなのに、私は今、未来のための最善の犠牲行動ができていない気がする。
ああ、私はもっと未来のために貯金をしなくてはならない!!
みたいな感じ。
未来のために。
未来のために。
未来に殺されないために
未来に殺されないために。
未来のために今があるみたいな思考。
これ、別に私が特別な感じもしていない。
これって結構当たり前の思考だよね。
科学的思考というか、合理的思考というか、なんというか。
人生が上手くいっていれば、未来に怯えることは少ないのだろうか?
わからない。
今ここだよ
私のお世話になっている、積極的傾聴の先生もよく「今ここだよ、今ここを聞くんだよ。」
そんなふうに言っていたような気がする。
でもイマイチ、ピンとこなかったんだよな。
過去は現在が創る

最近、私には過去は現在が創るっている感覚がある。
これは、年を重ねてきて、自然にそう思えるようになった。
なんというか、若い頃の方が、過去が近かったんだよね。
年を取ると過去が遠くなる。
だから、過去の影響力が弱くなって、わりとどうでもよくなる。
逆に未来がこわくなる
だけど、逆に未来がこわくなった。
若い頃は早く年を取りたいと思っていたものなのにな。
なんとも鮮やかな、ない物ねだりだな。
年を取れば取るほど今ここが、切実に大事になってくるような気がする。
哲学的には現在しかない
哲学的には、過去も未来も時間すら概念でしかなく、現在しかないのだろうか。
だけど、そんなふうに頭でわかったところで私にはあまり役に立たない。
感性のレベルで今ここを生きるってどんな感じなんだろう。
私はそこに俄然興味が湧いた。
今ここを生きる。
それを実感する?今ここに集中する?どんな感じなんだろ?
とにかく未来が私を殺しに来なくなるんであれば、この上なくありがたい。
今ここを祈りに加えてみた

私は、最近、朝の愛しているの祈り(ある意味これって瞑想みたいなもんだなと思う)に、「今ここ」というワードを加えてみた。
愛している、愛している、愛してる、という祈りの言葉に、今ここ愛している、今ここ愛してる、今ここ愛してると言葉をたしてみた。
今、今、今。
その言葉を繰り返し念じることで、少しでもその言葉が語りだすことを待っている。
「今」が語る言葉
最初は新鮮さもあって、少しだけ言葉が語ってくれた。
どうも、「今ここ」というところでは、無限らしい。
感覚的だけどね。
今は無限。
今は無制限。
しきりにそんな言葉が私に聞こえてきた。
この今は無限。
この今は無制限。
なんか、愛の祈りのパワーが増したような感覚があったんだよね。
この今は無限に愛してる。
この今は無制限に愛している。
今は無限。
今は無制限。
なんなんだろうな、この感覚。
感性は磨けば伸びる

なんでも念じ続けるということは大事なことで。
感性は、磨けば磨くほど伸びるというのはここ最近さらに確信をもっていることだ。
だから、「今」という言葉を念じ続ければ、今という感性は深まり、今という感覚はどんどん鋭くなってくる。
そうすれば、また私に聞こえてくる言葉も変わる。
まぁ、飽きずに念じ続ければ、飽きても念じ続けられれば、というのは条件だけどね。
念じ続ければ、思い出しやすくなる
「今」を念じ続ければ、「今」という言葉を日常思い出しやすくなる。
これって、とても大事なことなんだ。
今という言葉が、しつこくしつこく私に聞こえてくるようになれば、未来は逃げ出してくれるだろうか。
未来のための今。
なんか、それ嫌なんだ。
なんか、それ苦しいんだ。
世界をひっくり返してみた

未来のための今。
これを単純にひっくり返してみたらどうだろう。
ひっくり返してみると、「今のための未来。」
今のために未来はある。
どうだろ。
破滅的ロックンローラーみたいかな。
今のために未来はある。
未来という言葉を使うなら、ただ、今のために未来はある。
今、愛しているよ。
今、愛しているよ。
今、愛しているよ。
感性で生きていきたい
最近特に思う。
思考ではなく、感性でもっともっと文章を書いていきたいな。
ただ、ただ、感性のままに言葉を走らせる。
そう、声に出して、語るみたいにね。
またなにか、はかどったら、文字で語ってみるね。
それでは、また。
黒田明彦