「積極的傾聴者は、我慢して語り手の話を聞いているのだろうか?」
先日のエンカウンターグループに参加しているときに、そんな言葉が私の頭に浮かびました。
この疑問に、強い関心が湧きましたので、このあたりのところを書いてみたいと思います。
さて、積極的傾聴は自分を抑え、自分を殺し、我慢して語りての話を聞いているのでしょうか?
ただ聞くことって辛いこと?

「聞いてもらってばかりで悪い。」
たまに、そんな言葉を他の誰かから聞くこともある。
そして、すぐに私には「ただ聞いているだけって辛いことですよね?」という、音のない言葉が続けて聞こえてくる。
そんなとき、私がいつも言いたくなるのは、「別に聞かせていただくって、辛いことじゃないんだけどな」という言葉である。
積極的傾聴ってどんな場?
確かに積極的傾聴は、積極的傾聴者が語り手に聞いてもらう場ではない。
語り手が語り手のところを語っていくのが、積極的傾聴のメインの場だ。
「私ばっかり話している・・・。」
もし、語り手がそう感じたら、「積極的傾聴者の方にも本当は、言いたいことがあるのでは?それを積極的傾聴者は我慢しているのでは?」という考えが浮かぶのも自然かもしれない。
積極的傾聴者は我慢してない
だけど、訓練されている積極的傾聴者は、我慢して語り手の話を聞いているってことは、ほとんどない。
というか、我慢しなくても語り手の前にただ座っていられるように訓練されてきている。
この「ただ座っている」というのが大変に深い世界なわけだ。
たとえば、語り手が語るのをただ黙って聞いているだけで、語り手の前に落ち着いて座っていられる積極的傾聴者は、私は鈍いと思う。
そんなもんじゃない。
だって、語り手から言葉が、どんどんこちらに向かって、来ているんだ。
黙って聞いているということは、それに対する自分の身体の反応が全くないか、その身体の反応全てを無視しているってことになる。
それは、それこそ、とてつもない我慢をしなくちゃできるもんじゃない。
積極的傾聴が終わった後は、積極的傾聴者の頭の中に、いろんな言葉が残り、渦巻いてしまい、いろんな気分の波に襲われてしまうだろう。
そんなの辛くてしょうがないよ。
我慢せず、邪魔せず、語り手の役に立ちたい

積極的傾聴者は、積極的傾聴の場で、いかに我慢しないでいられて、かつ、積極的傾聴者の反応がいかに、語り手の救いになるか、この2つを同時に満たそうとしている。
積極的傾聴者が、語り手に聞かせてもらった言葉の相(すがた)をそのまま積極的傾聴者の声にして語り手に届けるのは、それをするのが一番楽だからだ。
それが我慢せず、邪魔をせず、積極的傾聴者のそのままの身体の反応を語り手に伝えることができる手段だからだ。
聞こえた言葉を語り手にそのまま届けることに集中できているときは、語り手の邪魔になるような積極的傾聴者自身の言葉が浮かんできにくい。
だから、落ち着いて語り手の言葉の世界に集中できる。
そして、多くの場合、積極的傾聴が終わった後、積極的傾聴者の頭の中には語り手の言葉が残っていない。
全て声にしてだしているからだ。
声にできた言葉は頭には残りにくい。
これは、積極的傾聴者なら誰もが知っている知恵だ。
邪魔になりそうな言葉が浮かんできてしまうときもある
語り手の語る言葉に集中し、ただ、聞こえた言葉の相(すがた)に反応しようとしていても、ふいに積極的傾聴者自身の言葉が浮かんできてしまうことはある。
そういうときに積極的傾聴者がどうするか。
自分の言葉は語り手の歩みの邪魔になりそうだから、我慢するのか。
そうじゃない。
人間は、自分の言葉を抱えながら、相手の言葉をそのまま聞くことはできないんだ。
だから積極的傾聴者は、次の語り手の言葉をまたしっかりと受け止めることができるためにも、我慢せずに自分の言葉を声にする。
このあたりがどれだけできるようになっているかが、大変なんだ。
自分の言葉が浮かんでしまった。
それによって、相手の言葉が聞こえにくくなっている。
この辺り、しっかり自覚することができるかどうか。
この辺りの自覚に鈍い積極的傾聴者を前にしたとき、語りては、「きっとこの積極的傾聴者は我慢している」という印象を持つのかもしれないね。
積極的傾聴者より、語り手のほうが敏感であるなんてことは、沢山あることなのだ。
積極的傾聴者はどうしたいのか?

そもそも積極的傾聴者は、語り手に対してどうしたいのか?
もう少し言うなら、積極的傾聴者は語り手の前でどうありたいのか?
積極的傾聴者(私)は、語り手が、語り手の道を歩くことを邪魔せずに、手伝いたいんだ。
まず、世の中、邪魔されずに自分の道を歩くこと、つまり、邪魔されずに語り、邪魔されずに自分の言葉と出会わせてもらえるような機会がほとんどない。
これ本当に、ほとんどないんだ。
ほとんどなさすぎて、皆、自分がそれを求めていることに気が付かない。
忘れてしまっているんだ。
語りたい。
聞いてほしい。
私の道を歩かせてほしい。
独りの自分にならせてほしい。
そんなありのままの自分に出会いたいという欲求に、出会いにくくなっている。
積極的傾聴者は、語り手の歩みを手伝いたい
積極的傾聴者は、そんな語り手を前にするとき、どうすれば、どうなれば、語り手は、自分自身の道を歩きやすくなるか、自分自身の道を歩きたい、歩かせてほしいという願いに目覚めるかを日夜研究している。
語り手が、語り手自身に出会いやすくなるための、積極的傾聴者の在り方をつくるのが、徹底して語り手の歩みを邪魔をしたくないという願いであり、どうすれば我慢せずに邪魔をしなくなれるか?という哲学と作法なんだ。
ちなみに個人的には、積極的傾聴者のアドバイスは、語り手が自分の道を歩くための一番の邪魔になりやすいと思っている。
だけど、一部の(多くの?)語り手は、積極的傾聴にそのアドバイス(邪魔)を求めてやってくるわけだからややこしい。
積極的傾聴者の関心は、自分がどんなに優れたアドバイスを語り手にできたか?ではない。
語り手が、どれほど率直に語ることができ、語り手自身に添う、語り手自身の言葉に出会えたかなんだ。
積極的傾聴者の我慢のしどころ
積極的傾聴者はね、語り手の生命に響いているような、語り手自身の言葉に出会いたくて、聞き続けているんだよ。
まぁ、だから、なかなか語り手の語りが生命に向かって深まっていかない時。
そこは積極的傾聴者の我慢のしどころかもしれないね。
そういうとき、私はまだまだ語り手を急かしてしまうような言葉が浮かんできてしまうかもしれない。
結果、語り手の歩みの邪魔になるような言葉を語り手に向けてしまうときもある。
そういうときは、後で落ち込む。
我慢してもしんどいし、我慢しなくても落ち込むこともある。
まだまだ修行が必要なんだ。
我慢することを我慢しないことも大事

積極的傾聴者は我慢して語り手の話を聞いているのだろうか?
訓練された積極的傾聴者は、我慢していないと書いたが、なんだかんだ言って、私もまだまだ相手によって、関係によっては、我慢しているときばかりなのだろうと思う。
だけど実は、我慢することを我慢しないということも大事なんだ。
我慢してはならない。
こうなると、結構大変。
我慢したい、となっているときに、無理して我慢しないようにしたら、それはそれで語り手を傷つけるようなことになってしまうかもしれないしね。
我慢してはならない。
我慢しなくても大丈夫になる。
この2つの違いがどれだけ大きいかということを実感できるようになることが大事だと思うんだ。
なんというか、私は・・・、
語り手が、私を前にしたときに、なんかわかんないけど、語り手自身が我慢しなくてもすむような、我慢したくなくなるような、そんな人間になっていきたいと思うんだよな。
黒田明彦