今回の記事は、言葉の不思議さについて書いてみようと思います。
言葉は、どこからか私のもとにやってきて、私に私を教えてくれます。
これは、私が積極的傾聴の学習を始めてから、当たり前のように実感している体験です。
私の意識の外からやってきてくれる言葉に、私は気づかせてもらい、変わらせてもらい、思いがけず成長させてもらってきました。
私の積極的傾聴の学習とは、そのような体験の繰り返しです。
興味のある方は読んでみてください。
【積極的傾聴の学習】言葉の相(すがた)の力
まず、言葉には意味と相(すがた)があります。
リンゴという言葉でいえば…、
リンゴという言葉の意味は、バラ科リンゴ属の落葉高木樹。そして、あの甘酸っぱくて丸く、赤い果実です。
リンゴという言葉の相(すがた)は、「リ」「ン」「ゴ」「リンゴ」です。
言葉が意味と相(すがた)に分かれること。これがまずは大事な学習です。
言葉が意味と相(すがた)に分かれれば、1つの言葉には1つの意味しかないという発想から自由になることができます。
そして、それぞれの言葉の相(すがた)に、その人間にとっての意味、エネルギー、生命が宿されているということを体験的に理解できるようになり、自分と、相手を明確に区別できるようにもなれるのです。
【積極的傾聴の学習】言葉の相(すがた)を聞いてもらう
積極的傾聴の学習は、基本的には語り手体験から始まるのが学習のプロセスとして綺麗です。
聞いてもらえたという体験、その不思議さ、有難さ。
自由に語れているときの感覚。
そして、言葉がどこからか届いてくるような感覚。
この辺りを実際、自分自身が語る中で体験してからのほうが、積極的傾聴の学習は進みやすいです。
語り手のところを聞かせていただくという行為を支えるのは、自分自身が誰かに聞いてもらえたという経験です。
それが根底にあれば、何故、相手の言葉を繰り返そうとするのか、何故、自分のところを置いておこうとするのか、何故、沈黙を大事にするのかが感覚的にわかるようになります。
言葉の相(すがた)を聞いてもらうという体験の実際
私自身の言葉の相(すがた)を聞いてもらえたという体験を紹介します。
それは、積極的傾聴の学習に参加して、初めて明確に味わった体験でした。
この私を今、ここ、ありのままに聞いてもらえたと実感できたという体験。
私の存在を、私の生命を、私のエネルギーをそのまま、私として聞いてもらえる感じ…。
それが、私の言葉の相(すがた)を聞いてもらうという体験だったのです。
人間とは、どこで明確に分かれ、どこで区別され、どこで一人になり、そして、どこで独りになっていけるのか。
それは、それぞれの人間に届けられてきている言葉の相(すがた)によって、なのです。
だから、私の言葉の相(すがた)を受けとめてもらえたときに、この私を聞いてもらえた、受けとめてもらえた実感できるのです。
私に届いている、私の声になった言葉の相(すがた)を聞いてもらえたときに私は初めて、私の存在を根っこから認めてもらい、受けとめてもらい、赦された感じがしたのです。
【積極的傾聴の学習】私に言葉が届くという体験
私が積極的傾聴の学習を始めた当初のころ、エンカウンターグループの場で、初めて自由に語れたとき、思っていること、考えていること、そしてそれまでの経験を言葉にしていく感覚で、いつものように話していました。
すると、自由に語っていく中で、私は、次第に不思議なことに気づいていきました。
「あれ?今まで私、こんなこと考えたことあったっけ?」
語りながらふと気が付いたのです。
今私が言ったこと、今まで考えたことも思ったこともなかったことだ…。
今まで考えてきたこと、思ってきたことではなく、今、初めてのところが言えている…。
それは、自分の声になった言葉の相(すがた)を自分の耳で聞いて、初めて自分が何を言ったのかを知ったというような体験でした。
これは非常に感覚的な語り方です。
私の声になった言葉の相(すがた)に、私を聞かせてもらうという感じ、私を言い当ててもらうような感じ。
この辺りの体験から、私が言葉を生んでいるのではなく、言葉はどこからか届けられてくるのだと言いたくなるのです。
言葉は、自分で考えて、自分の思いで、自分の力で生み出しているものではなく、どこからか、私に向って届けられてくるものである。
そして、私はそれを聞かせていただいているだけなんだ。
これは、私がもっとも感覚的に語れているときに、いつも感じる体験です。
だから、私にとって、「言う」と「聞く」は、ほとんど同じ感覚なんです。
私の意見、感覚、感想を言うということは、私にどこからか届けられてくる言葉によって、私の意見、感覚、感想を聞くということと、同じ意味なのです。
【積極的傾聴の学習】言葉が語り、言葉が私を聞かせてくれる
考えも、思いもしなかった言葉が、気が付いたら言えているという不思議な体験。
自分の意志を超えて、言葉が語るままに、運ばれていくという体験。
自分の力ではなく、言葉の力で語る、運ばれるという感覚。
この辺りの感覚との出会いは、積極的傾聴の学習の肝であります。
自分の意志や力を超えたところで、言葉の語りを聞かせてもらえるから、気づきは起き、学びは生まれ、変わっていけるのです。
この自分の意志を超えた言葉の相(すがた)は、自分の意識の外からやってくるという感覚なのです。
意識の外から聞こえる言葉というものは、たとえそれが、自分の声になっているところであっても、自分の力の及んでいるところではないと、素直に感じられるのです。
自分が考えも思いもしなかった言葉を今、自分が声にしているという感覚。
これは他の誰かに何かを言わされているというような、被憑依的な感覚ではありません。
私の意志を超えて、言葉がやってきてくれて、言葉が私の感覚、私の身体に合う、ところを探してくれる感じなのです。
主体は他の誰かや、霊、神や仏でもなく、言葉そのものなのです。
ただ、言葉が語り、言葉が私に私を聞かせてくれる。
それによって、私は、気づき、学び、変わっていける。
私にとっては、そう理解することが自然な体験だったのです。
【積極的傾聴の学習】言葉はどこからやってくるのか
非常に感覚的で申し訳ないのですが、私の感覚でいえば、言葉は…、
無意識から、意識に向かってやってくる。
魂から心に向かってやってくる。
身体から私に向かってやってくる。
そんな感覚です。
【積極的傾聴の学習】言葉が届くのを体験するには
自分が思いもしなかった言葉、考えもしなかった言葉、自分の意識の外からやってくるような言葉との出会いは、自分と相手の言葉をすり合わせるような作業をしているときには起こりにくいです。
日常、当たり前のようにしているような、相手にとって良い言葉を、相手の求める言葉を探すようなコミュニケーションをしているときには起こりにくいです。
言葉が届くという体験が起こりやすい条件は?
それは、ただ自分の言葉に向き合えるときに起こりやすいです。
そして、自分の声にした言葉の相(すがた)が自分に聞こえだすと、起こりやすいです。
さらに、それは、自分の声にした言葉の相(すがた)を、誰かにそのままの相(すがた)で聞かせてもらったときに、起こりやすいです。
自分の言葉の相(すがた)が返ってくると感じられること
私の声にした言葉の相(すがた)を他の誰かが、そのまま声にしてくれると、私は、自分がどんな言葉の相(すがた)で語ったかを他の人の声で聞くことができます。
自分の声にした言葉の相(すがた)を他者の声によって聞かせてもらえると、その言葉の相(すがた)が自分に添うかどうかが、よりはっきりとするようです。
自分の身体に添う言葉は、そのままの相(すがた)で相手の声になったとき、ホッとします。
そして、自分に添う言葉で語ることができれば、語ることができるほど、言葉が届くという体験をしやすくなってきます。
もし、自分の言葉の相(すがた)がそのままの相(すがた)で返ってきた、と不愉快に感じられるなら、自分の声に出したその言葉の(相)は、自分に添っていないのかもしれません。
それは、自分の言葉の相(すがた)が教えてくれる、自己不一致との出会いの瞬間かもしれません。
人間は、他人の声で聞いたときのほうが、その言葉の相(すがた)が自分に添うかどうかを判断しやすく、自分の不一致に気が付いていきやすいようです。
【積極的傾聴の学習】感情の浄化
言葉の相(すがた)には、エネルギーが宿っています。
それは、言葉の相(すがた)は、目に見えないエネルギーを具現化してくれるとも言えます。
人間に、感情エネルギーのような濃いエネルギーが生まれると、それは抱えていることが苦しいので、放出、浄化の方向へと向かおうとします。
感情エネルギーは、具現化され、浄化されることを望んでいるので、言葉の相(すがた)をもちたがるのです。
感情エネルギーは、保持し続けるのも苦しいですが、放出する瞬間も苦しいのです。
だから、感情エネルギーが、言葉の相(すがた)をもったあとも、他の誰かによって、赦されているという感覚が弱ければ、なかなか放出することができないようです。
他の誰かによって赦されているという感覚が強まれば、放出の苦しみを乗り越え、言葉の相(すがた)に具現化した感情エネルギーは放出され、浄化することができます。
そのときの解放感は相当のもので、憑き物が落ちた、世界の色が変わった、そんな変化を実感できるような体験になるようです。
【積極的傾聴の学習】おわりに
言葉は、私の意志を超えて語り、私に私を教えてくれます。
そして、私の感情エネルギーを象り、浄化を手伝ってもくれます。
私たちは、言葉がなければ、落ち着いていくことはできないようです。
言葉によって認識は生まれ、言葉によって私は、私になっていくのです。
たとえば、言葉にならない言葉、まだ相(すがた)を持っていない言葉になる前の何かも、
「言葉にならない言葉、まだ相(すがた)を持っていない言葉になる前の何か」という言葉の相(すがた)になってこそ感じられ、現実化するのです。
世界は言葉で満たされている。
これは、私の先生の師匠の言葉だったでしょうか。
ひとりひとりの人間に、全く違う言葉がやってきているという不思議。
積極的傾聴の学習とは、その不思議を生命掛けで堪能するプロセスなのかもしれません。
どこからか、あなためがけてやってきている、あなたのためだけの言葉。
もっと大事にしてみませんか。
黒田明彦