黒田明彦の自己紹介

初めまして、黒田明彦です。このページを開いていただき、ありがとうございます。

私自身の紹介に入る前に、まずは、このサイトのコンセプトをお伝えさせていただきます。

私がこのサイトでやりたいことは、そのままの黒田明彦という人間を表現することです。

そのためにも、私は、この黒田明彦の自己紹介という記事で、表面的な私の肩書き、実績などを紹介するに留まらず、今、語れる私の人生をそのままに、つづりたいと思います。

長くなりますが、どうぞお読みください。

1、生い立ち


私、黒田明彦は千葉県野田市に生まれ育ち、祖母、父、母、姉、の5人家族で暮らしてまいりました。

祖母は私が小さいころに亡くなってしまいましたので、実家で暮らした20年のうちの多くは、4人家族で過ごすことになりました。

20歳になる年の、まだ19歳の冬に、埼玉県朝霞市に引っ越し独り暮らしを始めました。何度かその周辺でアパートを引っ越したりもしましたが、もう18年以上もの間この地域で一人で暮らしています。

私は、思春期の頃、母との関係が本当に苦しくて、すごく辛い思いをしていました。父は父で、姉は姉でそれぞれ大変そうでしたから、助けを期待できるようなこともなく、一人で辛い日々を過ごしていました。

母は、現代の医療的側面から見れば、精神の病気なり、障害なりを抱えている状態だと思いますが、特にお医者さんのお世話になることもなく、家族でなんとかして隠すという感じで、踏ん張って毎日を過ごしておりました。

母の、症状からきている独特のコミュニケーション、私がそれに傷つき苦しんでも、その苦しみを誰にもわかってもらえない。認めてもらえない。

同年代の友人に相談すれば(今思えば、当然のことに思えますが)、適切な対応などしてもらえず、悩んでいること自体をとがめられたりしたものです。

それに加え、私は成長期に入っても同年代の男性に比べ、体格があまり大きくならず、それに強いコンプレックス、劣等感をもっていました。

当時の私は、常に他の同世代の男性よりも、自分を大きく見せなくてはならないと感じていたように思います。

そうしなければ、私は同世代の男性にも、女性にも認められないと感じていて、毎日必死にもがいていました。

一方、母との関係はどんどんひどくなっていきました。関係がひどくなると、母の症状もさらにひどくなるという悪循環も生まれ、私にとっての家庭環境はひどいものになっていきました。

見るにみかねた父親が、私に一人暮らしのチャンスを与えてくれて、私は飛び出すように家をでました。

一人暮らしを始め、生活環境が変わって、ストレスがグッと減ったことも良かったのか、私は、私に、自分ではどうにもならないような強い情動、衝動があるということが自覚できるようになってきました。

そして、当時、恋愛感情を抱いていた女性のことを思い、私は、どうにかしてこの自分を変えなくてはならないと考えました。

このままでは、私はその女性を傷つけてしまう…。そう思うと居てもたってもいられなくなりました。

そして、当時まだ出回ったばかりのインターネットを使って調べ、現在私が籍を置く、全日本カウンセリング協議会の門を叩くことになったのです。

2、カウンセリング学習との出会い


当時の私の行動の動機が、クライエントになりたい、自分の症状をどうにか治したいではなく、私自身がカウンセラーになりたいというものであったというのは興味深いところです。

カウンセリングの資格を取るための講座に申しこんだ後、初めてカウンセリングの研修会に参加しました。

それは、私のエンカウンターグループとの出会い、そして小河豊先生との出会いでした。

それは本当に、本当に衝撃的でした。

嘘をつかなくても大丈夫な世界はちゃんとあるんだ!

ひとりひとりの人間を、本当の意味で大事にできる、そんなやりとりは存在していたんだ!

こんなにすごい世界があるんだ。

こんなに人間を大事にしてもいいんだ。

自分を殺すことなく、かつ相手を本当の意味で大事にできる方法を体験する中で、私はこれらを実感し、身体全体で救われた気持ちになることができました。

なんだ、本物ってちゃんとあるんだ…。

助かった…。

それが、私のカウンセリングとの出会いでした。

それから、18年以上カウンセリングを学び続けていますが、いろいろ、いろいろ学ばせていただいています。

学習のプロセスの中、先生に私の言葉のすがたを聞いてもらう中で、泣いて、泣いて、泣きました。

それが、母に向かっていることはわかっていても、隠すしかなかった、出しどころのなかった、出しようもなかった、強烈な悲しみの情動、衝動も次第に浄化されていきました。

そして、いつの間にか、自分の体格を小さくみること、そして、そこに劣等感をもつということがなくなっていきました。

私はカウンセラーになりたいと思って学習を始め、続けてきました。

しかし、あるところまでは、間違いなく小河先生のクライエントでした。

身を持って学んだクライエント経験は、私のカウンセラーとしての学習を、今も本当に色濃いものとしてくれています。

ところで、私が学んできているのは、カール・ロジャーズの来談者中心療法です。

私が参加している学習のグループは、ロジャーズの技術だけではなく、人間哲学を正しく受けついでいる、数少ない学習者のグループです。

クライエントの言葉のすがたに、クライエントの世界を聞かせていただくというカウンセラーの在りように人生をかけ、「たった独りの人間」いう強烈な哲学を背景に持った学習者達。

ロジャーズのカウンセリングを、思考のレベルではなく、体感、実感のレベルで体現している人は、現代には本当に一握りしか存在せず、私はその一人であると自負しています。

カウンセリングの学習に出会い、私はたった独りの人間として、日々生まれ変わることができている感覚があります。 やっと、やっと、ここまで歩いてこれました。

3、精神保健福祉士として


私のカウンセリングの学習体験はもう18年以上にもなりますが、それによってこれまで生計をたててきたわけではありません。

現代にはカウンセリングという名前のビジネスは沢山ありますが、カウンセラーという名で食べていける職業はほとんどありません。

それに、そもそも私は資格を取るというだけでも、10年以上かかりましたので、食べていくための手段は別に必要でした。

当時(今もそうかもしれませんが)、心理学というものは敷居が高く、興味を持った人達、みんなが学べるような学問ではありませんでした。

私はそうそうに心理学の専門家になることは諦め、当時まだできたばかりの資格、「精神保健福祉士」に目を付けました。

それこそ、精神障害の代表格である、統合失調症の「と」の字も知らず、ただ「精神」という言葉に希望を見出し、精神保健福祉の学習に飛び込んだのでした。

資格を取るための専門学校に通い、いろいろと勉強させていただきましたが、教科書に載っていた、バイスティックの7原則を見たときに、「なるほど、私がカウンセリングで学んできていることと、さほど遠くはなさそうだ、これならやっていけるかもしれないな」と、安心したことをよく覚えています。

国家資格を取得した後は、すぐに近隣の福祉施設に就職しました。

所謂、精神障害者のための小規模作業所というところで、主に統合失調症の方と共に、11年以上一緒に働きました。

カウンセリングの勉強をずっと続けながら、統合失調症の人と関わり続けて理解したことは、カウンセリングで統合失調症を治すことはおそらくできないだろうということです。

ただ、統合失調症そのものを治すことはできなくても、症状を薬で抑えたうえで、カウンセリングのアプローチを与えることができれば、その人の心は成長し、自立心も強まり、より自分自身の人生を活き活きと生きることができるようになるであろうということには確信が持てました。

「病気や障害が治らなくても、元気になることはできる。」

そして、人は元気になることさえできれば、病気や障害に今まで以上に機能的に立ち向かうことができるようになるのです。 私はそんな言葉と共に、精神障害をお持ちの方と、長い間生活してきました。

しかし、働く年数が増えていくと、職員としての立場も変わっていきます。

私は現場職を離れ、管理職になりました。中間管理職です。

管理職になったばかりの私の心情としては、あまり現場には余計な口を出さずに、現場仕事は極力現場の職員に任せてあげたかった。

そして管理業務といっても、より権限の強い管理職が隣で働いていました。

私の立場には大した影響力もなく、淡々と管理事務をこなす日々となっていきました。

ひとりひとりの施設利用者と関わる機会も減ってしまい、私の仕事へのモチベーションはどんどん落ちていきました

丁度そのころ、学習の甲斐あって、カウンセラー資格の級もあがり、カウンセリングの学習も一区切りの感じがしていました。

そして、当時の職場でのやり取りの中での感情的な理由も後押しして、私は10年以上働いた職場を退職するに至ったのでした。

4、最初の独立、そして再就職


その後の1年間ぐらいは、カウンセラーを名乗り、独立していました。

それなりの意気込みで頑張ったつもりでしたが、結果的にはとても消極的な1年間になってしまいました。

友達に協力してもらいながら、インターネットでのカウンセリングビジネスを展開しようと、自分のサイトと長い時間、にらめっこしていたのですが、何をどうすれば仕事が生まれていくのかもわからず、また、最後まで自分がどうしていきたいのか、明確なビジョンが見えないまま、時間が経過していってしまいました。

私のサービスを利用してくれた人もごくわずかでしたので、収入がほとんどない状態の毎日に、どんどん苦しくなっていってしまいました。

今振り返っても、なんとも侘しく、なんとも寂しい日々でした。

ただ、カウンセリングの学習に集中することができていた日々でもあったので、私は、私自身のカウンセリングの特質の理解を深めることができ、カウンセリングの実力が上がっていることを感じていたのも確かでした。

しかし、結局私は侘しく、寂しい日々に耐えられず、まだ資金はあったものの、1年余りで、また精神保健福祉の雇われ仕事をすることを決心したのでした。

新しい職場では、定期的に定額の給料が入るという安心感に身震いしながら意気揚々と働きましたが、結局、すぐにまた管理職になってしまいました。

この新しい職場では、本当に、本当にいろいろありました。

この職場でやっていくことに限界を感じ始めたころ…、はて、次は、私は新しく何をしたいだろうか?と考えました。

慣れ親しんだ精神保健福祉の業界とはいえ、管理職という立場は満足できるものではない。

しかし、現場職にもどるのも難しいキャリアを積み上げてしまってきている。

私がより自分らしく、より自分を活かすためにはどうしたら良いのだろうか。

もっと自分を活かしたい。もっと私らしくありたい。

縮こまって、狭い範囲で安全に暮らしていくこともできる。

だけど、私の身体は、今、それを望んでいるのだろうか?

どうしたらもっとこの今の自分を、ありのままに、活かすことができるだろうか。

私が、より、成長していくためにはどうしたら良いだろうか。

成長したい、変わりたい。

私は、もっと、私を広げたい。

私は、もっと、自在に、機能したい!

そう思えたときに、何か新しいことにチャレンジできないかと考えたのです。

5、逆エンパスという概念との出会い


新しいチャレンジをするにあたって、私はずっと感じていた自分の感性をどうにかして一般化できないかと考えていました。

敏感で、鋭い感性、しかしそれは日常では生きづらさを感じることのほうが多かった。

そんな私の特徴をどう説明できるだろうか…。

インターネットで情報を調べているうちに、私はHSP、エンパスという言葉に出会い、そして最後に逆エンパスという言葉に出会いました。

逆エンパスという概念、そして、目に見えないエネルギーをイメージした考え方が、これまで私が言語化できていなかった経験を、どんどんクリアに言語化していってくれました。

私は、このブログで逆エンパスについての記事をどんどん書いていきました。

最初はこわかった。

目に見えない現象を自分の感覚だけで表明していくことは、おかしなことをしているんじゃないかと不安になりました。

しかし、書けば書くほどに、自分の経験がクリアになっていくことは、楽しかった。

エネルギーの流れをイメージできなければ、言語化できなかった体験が、こんなにもあるとは!と驚きました。

私のブログを読んでくれた人から、暖かいメッセージをいただいたことにも本当に勇気づけられました。

逆エンパス関係の記事は、こちらのブログにたくさんあります。

https://kanjoutantei.com/

ボチボチ更新していきますので、興味のある人はのぞいてみてください。

6、これからの黒田明彦

この1年の間、私は、記事を書いて、書いて、書いて、書きました。

その中でいろんな気づきを経て、そしてまた、新たな生活を迎えようとしています。

現在の私はカウンセラーというよりも、学習者として皆様に発信したい気持ちになっています。

そして、また、学習者としての皆様とお会いし、共に育っていきたい。

これから始まる40代は、私の人生にとっての第3章です。

ここまでこの長い文章を読んでくれたあなたには、どんな形でもいいから、ご一緒したいですね。

お会いできること、楽しみにしています。

黒田明彦