最近、自我の苦しみについていろいろ考えていたら、あるひとつの考え方の展開がありまして…。
その展開によって、私の中の無条件の肯定的関心の理解がまた少し開かれましたので少しまとめて書いてみようと思います。
日々成長。
まだ、まだ、どんどん変わっていきます。
興味のある方は読んでみてください。
【存在―無条件の肯定的関心―受容】自我と存在
いきなりですが、まず、いろいろと難しく考えず、自我というものを、人間の高度な認識能力であり、とにかく分けるはたらきとして考えてしまおうと思います。
そして、自我によって、他から分けられた、記憶と体験がたまったものを私と考えてみます。
自我とは、人間の脳の高度な認識能力のこと。分けていく機能そのもの。
自我によって分けられた、記憶と体験がたまったものを私として考えてみる。
いろんなものをとにかく分けていくはたらきが脳ミソにあって…、
そうやって、分かれて分かれて分かれて分かれたものが記憶としてたまったものが私という感覚。
そう考えていくと、私には、存在という概念も、他と自分というものを分けるために生まれた概念なようが気がしてきたんです。
存在という概念は、自我が、他と自分を分けるために必要な概念だった!?
存在とは、他と分かれていることを正当化するための概念。
多分、仏教の空(クウ)とかもこの辺りの感覚に関係しているのではないでしょうか。
万物に実体がないということは、大体そんなことなんじゃないかと思うのです。
だから、すべての存在証明は、1つのものから、分かれていることを正当化しているだけにすぎないんだと思うのです。
【存在―無条件の肯定的関心―受容】ただ存在するために
分けるためだけに必要なのが存在という概念。
それはつまり、存在とは、ただ存在するために必要な概念だとも言える。
別に分かれる前の、1つのままでも何も困らなかったのに。
脳ミソの分ける機能が発達した結果、とにかくすべては脳の中で分かれていった。
それだけ。
1つのものを分けていくためだけに必要な概念、それが存在。
【存在―無条件の肯定的関心―受容】私という存在
このあたりの小難しい考え方を踏まえて、私の存在を私の好きなように表現してみます。
私という存在には、何の価値も、意味も、役割も、必要性もなにも、最初からない。
私はただ、脳ミソが1つのものから分けた結果生まれたもの。
ただ、生れてしまったもの。それが私である。
最初から、この私には、何の価値も、意味も、役割も、必要性もなにもない。
それなのに、ただ存在してしまっている。
ただ、存在するために存在しているもの、それが私なのである。
言い換えれば、最初から、存在するために存在することが赦されてしまっているのが私なのである。
最初から、最初から、
何の価値も、意味も、役割も、必要性もなにもなく、ただ存在してしまっていることを赦されているのが私なのである。
1つの宇宙から分かれて、分かれて、分かれて、すでに存在となっていた。
存在となっていた、ということは、それだけで、何の価値も、意味も、役割も、必要性もなにもなく、ただ存在することをすでに赦されてしまった、ということなのである。
他の何かに存在の赦しを乞う必要などないのである。
生まれた、ということは、すでに赦されてしまった、ということなのだから。
【存在―無条件の肯定的関心―受容】人間という存在を一般化してみる
一般化してみよう。
全ての人間は、最初から何の価値も、意味も、役割も、必要性もなにもなく、ただ存在してしまっている。
それはつまり、全ての人間が、何の価値も、意味も、役割も、必要性もなにもないまま、ただ存在することをすでに、無条件に赦されしまったということである。
人間は、生れたときにはすでに、無条件に肯定されてしまったということである。
【存在―無条件の肯定的関心―受容】無条件の肯定的関心
無条件の肯定的関心とは、この事実から始まる。
私が存在し、相手が存在するということは、それだけで、私も、相手も別の存在としてすでに赦されてしまったということである。
私も、相手も、自我の機能によって、徹底的に分けられ、分けられ続けた結果、存在になっている。
それはつまり、私と、相手は違うからこそ、お互いが存在できているということでもある。
無条件の肯定とは、全ての人間が、何の価値も、意味も、役割も、必要性もなにもないまま、ただ存在することをすでに、無条件に赦されてしまったということを体験的に理解することである。
そして、関心をもつべきところは、違いである。
存在は、分けること、違いによって生まれる。
存在とは、違いそのものであると言ってもいい。
つまり、他人の存在を愛するということは、違いを愛するということと同じ意味である。
つまり、他人の存在に関心をもつということは、違いに関心をもつということである。
無条件の肯定的関心とは、全ての人間が、何の価値も、意味も、役割も、必要性もなにもないまま、ただ存在することをすでに、無条件に赦されてしまったということを体験的に理解した上で、私と相手との違いに関心を持つことである。
これが、現時点での私の体験的理解である。
【存在―無条件の肯定的関心―受容】おわりに
私は、自分の苦しみについて考えていたら、自我の苦しみに気が付き、自我の苦しみを分かろう分かろうと足掻いていたら、無条件の肯定的関心の理解が進みました。
私の存在には、何の価値も、意味も、役割も、必要性もなにもない。
この事実は、衝撃でしょうか。受け入れがたいでしょうか。
確かに私だけがそうだと思えてしまったら絶望を感じるかもしれません。
しかし、存在に、何の価値も、意味も、役割も、必要性もなにもないのは、私を含むすべての人も同じであると考えられるとどうでしょうか?
美しいあの人も、お金持ちのあの人も、世界を救ったあの人も、あなたの存在を徹底的に否定したあの人でさえ、その存在には何の価値も、意味も、役割も、必要性もなにもない。
そう思えるとちょっとホッとしませんか?
誰しも、存在すること以外に存在理由をもっていないんです。
誰しもです。
皆が皆、そんな人生を七転八倒しながら生きている。
なんかステキですよね。
何の価値も、意味も、役割も、必要性もなく、ただ生きる。
積極的傾聴は、そんな人間に目覚めていくための学習なのだと私は思うのです。
黒田明彦