私自身、積極的傾聴の学習を始めてから、いくつもの学び、いくつもの変化を得ることができました。
その中でも、とても大きな成果の1つに、この感情の浄化(カタルシス)による変化があります。
この感情の浄化(カタルシス)は、積極的傾聴の治療的効果として大きく期待できる部分であると言えそうです。
今回の記事は私自身のリアルな感情の浄化(カタルシス)体験を記してみました。
興味のある方は読んでみてください。
【感情の浄化(カタルシス)のリアル】浄化に至るまでの背景
私は思春期の頃、母との関係にとても悩んでいました。
私の母はおそらく発達障害をもっており、おそらく軽度の統合失調症を患っております。
私が小さい頃は、特に大きな問題はなく、むしろ私は母のことが大好きでした。
しかし、私が思春期に入り、精神的な自立のための大きな葛藤を抱えるようになるころ、母の調子はどんどん悪くなっていきました。
私たちは襖一枚で隔てた隣同士の部屋で生活していました。
母は調子が悪くなると、そこそこ大きな声で一人言を始めてしまいます。
その内容は母親の外側しか感じることのできない私にとっては、理解不能で気味が悪いものでした。
日々、母の一人言を聞いているうちに、私のストレスは高まっていきました。
自分の肉親が普通ではないかもしれないという恐怖。
そして、そう思ってしまうことの罪悪感。
母は私に危害を加える様子は微塵もありませんでしたが、私の「母とまともなやりとりがしたい」という願いを叶えてくれるような状態ではありませんでした。
母とは、とにかく普通の会話ができませんでした。
その寂しさ、悲しさ、そしておそろしさ。
学校でも思春期の苦しみを味わっていた私にとって、母はそれを助けてくれるべき存在でした。
しかし、まともな会話すらできない。
私は母のことを悪く思い、悪く言うしかありませんでした。
しかし、そのたびに自分の言葉が自分自身の胸に突き刺さっていた。
大声で言い合いをしたり、音楽を大音量でかけて、隣の部屋の母の声をかき消そうとしたり。
自分のどの行動も悲しくて、そして絶望感がありました。
わかりあえない。通じ合えない。
簡単な言葉のやり取りすらまともにできない絶望感。
母は変えられないという実感。
それに打ちのめされていました。
父親は私のことを気遣ってくれていましたが、彼はとても不器用なので、彼の力でこの私にとっての絶望的状況を改善することはできませんでした。
私にはその他の大人に信用できる人はいませんでしたので、せいぜい友達に愚痴をこぼす程度のことしかできなかったのですが、親のことを悪く言うことは、タブー視されているかのように、皆、親身には聞いてくれませんでした。
振り返ってみると、母も、父も、友達も、まったく無理のない自然な動きをしていたと思います。
今の私には、誰に対しても恨みの気持ちは1つも残っていません。
【感情の浄化(カタルシス)のリアル】浄化への兆し
当時学生だった私は、自分ではどうしようもないようなストレス、絶望感から、うつ的な症状が出始めていました。
元気を失い、意欲は低下し、なんというかとても気が小さくなっていく感じだったのです。
視野も狭まり、思考的な落ち込みを超えて、感覚的に狭窄していくような感じ。あの感覚のことをうつ状態というのでしょう。
当時、街頭など、明るい照明を眺めていると、なぜか心が落ちつき、少し症状が和らぐことを体験しましたので、高照度光照射療法は、軽いうつ症状には効果があるかもしれないなぁという理解も得ることができました。正しく行わないと、視力が下がったり大変なことになりそうですが。
母親の不調がピークになったとき、父親が私に一人暮らしを認めてくれました。
私は母から逃げるように実家を離れました。
まずはこれが良かったですね。
母との接点がなくなったことで、日々のストレスが下がり、私の精神状況は大幅に改善されました。
しかし、うつ症状はなくならず、心に不具合を抱えたままの生活になりました。
【感情の浄化(カタルシス)のリアル】積極的傾聴の学習との出会い
それからいろいろありまして…、私は積極的傾聴の学習会に参加することになります。
私にとって、最初の積極的傾聴体験は、エンカウンターグループへの参加でした。
そして、そこで私は非常に貴重な体験をすることになったのです。
【感情の浄化(カタルシス)のリアル】エンカウンターグループ
エンカウンターグループ。
とても刺激的。
別世界。
そこには身体が打ち震えるほどの純粋性がありました。
本物はあったんだ。
人は人を、そして自分をこんなにも大事にしてよかったんだ。
私は救われました。
エンカウンターグループでの学びはいろいろとありましたが、今回の記事は感情の浄化(カタルシス)に絞って記していきます。
私は、グループの中で、私の母との関係について、つらつらと語らせてもらいました。
「大したことじゃないんですけど…」
そんなふうな言葉で私の語りは始まったように思います。
小一時間語らせてもらったでしょうか。
私は母との出来事を話し、そこから感じている絶望感を露わにしました。
まさに灰色。
色のない語り。
エネルギーの薄い語り。
たんたんと。
生命が、エネルギーが、感情が、どこか遠くにあるかのような語り方でした。
先生が私の言葉のすがたを繰り返し、声にして届けてくれるたびに、ビクッとばつが悪い感じがしたことを覚えています。
そして私の頭の中に「そうじゃない」という言葉が、かすかに聞こえてきていました。
私は、私の語りに、私自身の言葉のすがたに、薄っすらと不一致を感じることができたようなのです。
【感情の浄化(カタルシス)のリアル】奇跡の浄化体験
私の灰色の語りが終わった次の日。
エンカウンターグループのセッションはまだまだ続いていました。
その、あるセッションの中で、他の参加者が感情的に語っていました。
それは多分、その参加者自身の母親のことを、わりと安易に悪くいうような発言だったように覚えています。
それに触発されたんですね。
私の頭のなかには、「そうじゃない!」という言葉が大きく響きわたりました。
そして、私は座ったまま壁にもたれかかり、顔をバッと隠して、そのまま動けなくなってしまいました。
その参加者の語りが一段落したあと、先生がすかさず声をかけてくれました。
「黒田さん、もう眠いですか?」
その瞬間…
「ウッ…ウッ…クーッ、グーッ…。」
叫ぶように、全方位にめちゃくちゃにエネルギーをぶっ放すように、私は涙になりました。
泣いたなんてもんじゃない。まさに慟哭です。
身体から色のついた濃いエネルギーが凄まじい勢いで出ていったのです。
身体の筋肉は硬直し、顔はギューギューにしかめられ、涙も声も止められずに、狂ったようにエネルギーを放出しました。
「悲しかったから・・・僕はどうすることもできなかったから・・・母を責めたいんじゃなかったから・・・父も助けてくれなくて・・・だけど、どうしようもないこともわかっていて・・・」
涙と嗚咽で途切れ途切れになる私の言葉のすがたを先生は、強烈な意志で支えてくれました。
「聞こえない。もう少し大きな声で…。うん、うん。」
目に、いっぱいの潤いを持ちながら、先生は、少しもひるまずに、私の声を、言葉のすがたを受けとめようとしてくれ、必死に私と一緒に歩んでくれようとしてくれました。
グシャグシャになりながら、伝わるように言葉を声にしていくのは大変でしたが、先生のその姿勢がとても嬉しかったことを覚えています。
先生は、涙でつぶれそうになっている私に、その強烈なエネルギーを象る言葉のすがたを言わせてくれました。
この体験は、まさに私にとって感情の浄化(カタルシス)でした。
身体と心の奥の奥に、どうしても隠れるより他なかった、凄まじく強力なエネルギーが噴出された感じでした。
そして、それ以降私は、うつ的な症状をほとんど自覚することがなくなったのです。
私はこのエンカウンターグループでの体験以降、母に母としての役割を求めることがなくなりました。そして、そのおかげでとても楽になれたのです。
また、私と母は、たとえ血がつながっていようとも、別個の存在であるということも学ぶことができました。
だからどれだけ母の調子が悪くとも、自分がそうなるかどうかは別の話です。
母と私は関係がないと、身体の芯から思えるようになったのです。
しばらくして実家の母と顔を合わせる機会があったとき、
「あら、あきちゃん…別人になっちゃったのね。」
それが再開したときの母の第一声でした。
「わ…わかるの?」
あらためて、この人はすごい人なんだなと思えました。
【感情の浄化(カタルシス)のリアル】おわりに
以上が私の感情浄化(カタルシス)のリアルな体験です。
私が強烈なカタルシスを体験することができたのには、いくつもの条件があります。
まず、私自身に強烈なエネルギーの滞りが起こっていたこと。それこそ病的症状がでてしまうほどです。
そして場の純粋性が著しく高かったこと。これは、エンカウンターグループの構成、世話人の実力によっては実現が難しいと思います。
さらに、私が私自身であることが赦され、そしてそれを望まれる雰囲気が感じ取れたこと。
これは、エンカウンターグループを通して、先生からすべての参加者に願われているものとして感じられました。
そんな中で、目一杯語ることができたこと。
そして、最後に、他の参加者から感情の触発があったこと。
これらの条件が揃ったことで、私の身体には奇跡のような強烈なカタルシスがおきました。
私にとって積極的傾聴の学習との出会いは、このカタルシスとの出会いでもありました。
おそらく、もう二度とあんな体験はできないでしょう。
その後もエンカウンターグループに参加するたびに母のことを話して涙になっていましたが、あれほど激しいエネルギーの放出はありませんでした。
あれほど悲しく絶望的な気持ちになることは、そうそうないからとも言えるし、エネルギーをため込まなくてすむようになったとも言えるかもしれません。
しかし、あれほどの大きなエネルギー放出ではなくても、涙になるたびに、私はスッキリし、身体も心も軽くなっていった実感はありました。
積極的傾聴の学習において、非常に大きなカタルシスに立ち会えることは、ひとつの奇跡みたいなものなんだと思います。
あなたの身体と心の奥にも、奇跡は待っていてくれているかもしれません。
もし、時期が来たのなら、私にも、あなたの奇跡との出会いの瞬間を立ち会わせてほしいと願っています。
あなたとあなたの奇跡に、お会いできることを楽しみにしています。
黒田明彦