感性が鋭い人、感性が鈍い人。
そんな比較が言葉にされていることって、日常ポツポツとありますよね。
あれって、どんな人のことを言っているのか、いまいちよくわからなくないですか?
感性が鋭い人、感性が鈍い人ってどういう人のことなんでしょう?
そして、感性が鈍い人だと、なんか問題があるのでしょうか?
私の考えの結論を先に言うと、感性が鈍い人は病気になりやすいです。
ちょっとドキッとしましたね。
興味のあるかたは読んでみてください。
まず、感性とは何か?

感性についての定義は、哲学や心理学の様々な立場によって違います。
ここでは一貫して、感性とは刺激に対する反応を具現化する能力である、と捉えます。
感性と感受性を同じものだと捉える考え方が現在の主流かもしれませんが、私はもう一歩踏み込んで、刺激に対する反応の大きさが感受性であり、刺激に対する反応を具現化するのが感性である、と定義します。
この辺りはすでにこちらの記事で詳しく図解して書いてあるので、是非参考にしてください。
感性が鋭い人ー感性が発揮されるとき

「感性が鋭い人」と言われる人がいますが、感性が発揮されている、というのはどういうときのことを言うのでしょうか。
私たちは目や、耳、鼻、肌、ときにはオーラやエネルギーというような目に見えないものでも刺激にふれます。
芸術作品を見たときに、感動を覚えたり、不思議なエネルギーを感じたり、映画や小説などの物語を見て、ワクワクしたり、悲しい気持ちになったり、人との交流においては色鮮やかな喜怒哀楽が生まれますよね。
見た瞬間、反応(エネルギーが生まれる)

その反応(エネルギー)が、感性の力によって、言語化され、浄化・循環される

このように、刺激に対する反応がそのまま言葉やイメージによって具現化されているときこそ、まさに感性が発揮されているときです。
感性とは、自分の反応(エネルギー)をぴったりと現わしてくれる、具体的な代物(言語、その他の表現)に出会っていく力であるとも言えます。
言語に関する感性の差
感受性が同程度の3人の刺激に対する感性の差を分かりやすく表してみると…
同程度の感受性により、同程度の反応(エネルギー)が生まれているのに対し、

感性の差によって、浄化・循環できるエネルギーに差が生まれる

感性が鋭い人ほど、刺激に対して生まれた反応(エネルギー)に見合った何か(言葉、身体、芸術など)を具現化でき、エネルギーを浄化、循環できます。
感性の種類に関してはこちらの記事に詳しく書いてあります。
感性が鋭い人の特徴

これから、感性が鋭い人の特徴をいくつか簡単に書いてみます。
感性の鋭い人は、物事を独自の角度から見る事ができる
感性の鋭い人は、自分自身の過去の反応のパターンや、他の誰かの価値観に縛られず、今ここの、自分の反応をそのまま真っすぐに具現化できます。
感覚的には、過去の反応のパターンや、他の誰かの価値観を全く無視しているのではなくて、それよりも、今ここの感覚がより強く訴えてくるという感じでしょうか。

その場その場での独自の観点からの表現は、周りにいる人をドキッとさせたり、唸らせたりもします。
感性が鋭い人は反応の具現化(エネルギーの放出)が多い
感性の鋭い人は、反応(エネルギー)を具現化するのに、余計な制限を感じにくいので、どんどん独創的になり、刺激から生まれた反応(エネルギー)をどんどん放出していきます。
今ここの、自分の反応を鋭く具現化し続ける人の熱量は非常に高く、グループの中でも頼れる存在です。
感性が鋭い人は常識にも縛られない
感性の鋭い人は、既存の常識や科学の枠すら飛び越えて、率直に、自在に、刺激に対する自分の反応を具現化できます。
人々を驚かし、時代を変えるような発明や、発見、そして作品を生んできた人達は、きっと異端とも言えるような鋭い感性の人だったのでしょう。
感性が鈍い人の特徴

それでは、感性が鈍い人とはどういう特徴を持った人でしょうか。
感性が鈍い人は、刺激に対して反応(エネルギー)が生まれているのに、それを具現化する力が弱くなってしまっている人です。
感性が鈍いと、自分の身に何が起こっているのかが、自分でわからないという状態になります。

感性が鈍くなることで起こる問題
刺激によって生まれた反応(エネルギー)が、言葉や芸術などを媒介して具現化されなかった場合、その反応(エネルギー)は滞ってしまいます。
そして、その滞りが、ある一定の水準を超えてしまうと、身体的な不調や、心の不調として具現化してしまうことがあるのです。

それらは、ときに日常生活に深刻な影響を与える、病気という形で具現化してしまうことでしょう。
他人に「鈍い!」と言われる人の2つのパターン

他人に「鈍い人ね!」と言われてしまう人には2つのパターンがあるように思います。
感受性が弱い人の場合
1つは、純粋に刺激への反応が弱い人、つまり感受性が弱い人です。
感受性の弱い人は、同じ刺激からの反応が小さい

こういう人は、もともと穏やかで滅多に物事にうろたえない人でしょう。
ある意味頼もしい人でもあります。
しかし、一方では、自分より感受性が豊かな人の反応を理解するのが、相当に難しいです。
また、気づいたほうが豊かな人生をおくれるかもしれない様々な刺激を見過ごすことも多いかもしれません。
感性が鈍い人の場合
もう一つが、感受性が弱くないのに感性が鈍い人です。
感受性が弱いのなら、生み出されている反応(エネルギー)がそもそも小さいので大して問題になりません。

しかし、感受性が強いのにも関わらず、感性が鈍いとなると厄介です。

これは、刺激から生み出されている反応(エネルギー)は毎回大きいにも関わらず、それを循環、浄化するはたらきが全然作動していないということです。
誰しも自分の反応(エネルギー)をキレイさっぱり循環・浄化させられるような鋭い感性が育っているわけではないかもしれません。
ほとんどの人間は反応(エネルギー)の滞留を抱えながら生きていることでしょう。
しかし、感受性と感性のギャップが大きすぎると、一人では抱えきれないほどの反応(エネルギー)の滞留を生んでしまい、かつ、それは自分の身体に深刻な影響が出るまで気が付くことができないのです。
感性が鈍い人、感性が育たない理由

感性が鈍くなったり、上手く育たないのには、いくつかのパターンがあるように思います。
ここでは、簡単に3つのパターンを紹介します。
身近に感性の鋭い人がいなかったパターン
感性が育っていく特効薬は、感性の鋭い人と直接やり取りすることです。
一人では想像もできなかったような感性にふれているだけで、少しずつですが、引っ張られるように、感性は鋭くなっていきます。

生まれつき感受性が強く、生きやすさのために、感性を育てる必要がある人でも、身近に感性の鋭い人がいない場合は、なかなか、一人で感性を育てることは難しいでしょう。
大きな力で、感性が抑えられてしまったパターン
感性が鈍くなったり、育たない理由の中で一番やりきれないのが、このパターンです。
身近な人、特に、自分を保護してくれる立場の人による、強烈な価値観の押し付けや、度重なる否定的アプローチにより、自分のそのままの反応を具現化することが、抑圧どころか、事実上完全に禁止されてしまうという状況すら存在します。
この状況では、感性が育つのはほぼ不可能です。

残念ながら、人間には生きるために感性が育つことを諦めなければならないという境遇があるのです。
しかし、私が、強調してお伝えしたいのは、この「感性が育つことを諦めなければならない」という境遇は、一時的である、ということです。
人間は、ある時期を超えれば(結構に長い期間ですが)、決められた誰かの保護を受け続けなくても生きることができるようになります。
そして、いつからでも、感性は育てなおすことができるのです。
ただ、その事実に気が付けるようになるのにも一定の感性が必要だというジレンマはあるのですが・・・。
社会、常識が許さないパターン
人間は、一人では生きていけません。
無人島で自活するなどとか、極端なことを言いださない限りは、常に、人間同士のネットワークの中で助け合いながら生きていく必要があります。
複数の人と協力していく中では、どうしても、具現化するのが好ましくない反応というものも存在します。
私たちは、社会、常識、道徳、そして具体的には法律によって感性を縛られています。
たとえば、性的な反応(エネルギー)をひとつ取り上げても、それをどう具現化するかということは、社会的には非常に複雑な問題であるということがわかりますよね。

ただ反応を具現化する能力を高めればよいというわけではないのが、感性の難しいところです。
社会性と感性のバランスが人生において非常に大事になってくるということですね。
感性が鋭い人と鈍い人のまとめ

「感性が鋭い人と鈍い人の違い、感性が鈍いと何か問題あるの?」ということで進めてきました。
感性が鋭い人は、自分自身の反応こそが最高の権威であるかのように、何者にも縛られず、刺激に対する反応(エネルギー)を自在に具現化できる人です。
とはいえ、社会性とのバランスは重要であるということも忘れてはいけないということをお伝えしてきました。
そして、感受性が強いのに感性が鈍い人は、刺激に対する反応(エネルギー)が滞りすぎた挙句、病気として身体的に具現化してしまうことがある、ということでしたね。
ちょっと、ドキッとする内容だったのではないでしょうか。
最後に、私は、感性はいつからでも育てなおすことができると本気で思っています。
今よりも確かな自分を感じながら生きること、今より鮮やかな世界を生きることはできます。
さあ、感性レベルのやりとりを意識して始めてみませんか。
明日からではなく、今日から。
黒田明彦