前回の記事で、人間が変わるためには、とことんまで赦されることと、変わるための強い意志が必要であると書きました。
そして、変わるための強い意志は、純粋な自己否定から生まれるのではないかという仮説を立ててみました。
今回の記事は、その純粋な自己否定について、より掘り下げていこうとおもいます。
興味のある方は前回の記事も併せて、読んでみてください。
【純粋な自己否定】変わりたいという強い意志
人間が本当に変わるための、変わりたいという強い意志が生まれるには、その人の身体と心が強いエネルギーに包まれる必要があります。
そのような強いエネルギーに包まれるためには、ある程度自分が、追い詰められるような状況になる必要があるようです。
しかし、追い詰められるといってもいろいろな状況があります。
たとえば、生きていれば、他者のエネルギーによって攻撃を受けたり、他者の価値観や、社会の常識によって、虐げられることで、追い詰められてしまう場合がありますね。
この状態は、自分のエネルギーが奪われたり、浸食を受けてしまっているような状態です。
人間は、そういう追い詰められ方をしているときは、変わることはできず、むしろ今の自分をなんとか維持しようと頑張ってしまうのです。
それでは、変わろうという強い意志が生まれるとき、身体と心が強いエネルギーに包まれるときは、どんな追い詰められ方をしたときでしょうか?
それは純粋な自己否定になっているときです。
他の誰かがとやかく言うからじゃない。
社会的な評価の影響に苦しんでいるわけでもない。
それはただ、自分で自分が許せないような、真っすぐ自分の感覚で許せないとなるような、混じりっけのない自己否定なのです。
自分で自分が許せない
このままじゃいやだ
変わりたい、どうしても変わりたい
本当に本当に愚かな自分だ
この愚かな自分に責任を取りたい
誰に言われるでもなく、自分の中に変化の必要性が生まれるとき、強いエネルギーに包まれます。
本当に悔しくて、心が追い詰められ、頭は興奮し、眠れない夜がやってきます。
くそ、くそ、なんで、なんで!
それは自分への攻撃というよりは、純粋に悔やむ力。
そして、自分で自分の責任を取りたがっているエネルギーです。
誰かに押し付けられた苦しみでも、えぐりとられた苦しみでもない。
自分で責任を取るしかない。
そういう苦しみ、そういう追い詰められ方です。
自分で立ち上がるより手がないことを身体と心で受け止め、すでに立ち上がろうとするエネルギーが溢れ始めている。
そのエネルギーこそが本当に変わろうとする強い意志であり、純粋な自己否定なのです。
【純粋な自己否定】純粋な自己否定に追い込まれるには?
どうすれば純粋な自己否定に追い込まれることができるのでしょうか?
それは、ある程度環境が整う必要があります。
他者との関係におけるストレスにまみれ、エネルギーが浸食されている状態だと、他者にエネルギーをぶつけ返す、攻撃⇔反撃でエネルギーのバランスをとろうとしますので、純粋な自己否定に至る余裕がありません。
このように、他者から否定され、他者を否定する流れでエネルギーのバランスを取っている状態では、本当に変わりたい、という強い意志は生まれにくいです。
他者からのストレスから解放されること
本当に変わりたいという強い意志が生まれるには、今の自分の状態が、他者のせいで出来上がっているわけではないと、はっきり自覚できる必要があります。
たとえば、親との関係で、今の嫌いな自分が出来上がっていると感じているのなら、その自分を本気で変えるためのエネルギーが欲しいなら、まずは親から離れる必要があります。
親のせいと思えるうちは、純粋な自己否定には至れません。
親を責める方向にエネルギーが向かっているからです。
他者の価値観、社会的評価から脱する
他の誰かの価値観や、社会的常識から自分を眺めて、その基準で自分を否定する。
他者、社会の評価を自分に投影している状態では、本当に変わるための強いエネルギーは生まれません。
ただ自分の感覚、信念において、たった独りの状態での自己否定が、自分が変わるため、変わりきるためのエネルギーを生むのです。
純粋な自己否定に向かうためにも、安心の環境は必要
自分で自分を純粋に否定するには、ある程度安心の環境が必要であるということです。
何かに脅かされている状態では、人は自分の責任を取るためにエネルギーをまわす余裕がない。
純粋な自己否定とは、自分が自分の責任を取ろうとしているときに生まれる、強烈なエネルギーなのです。
これは、誰かに責任を奪われたり、誰かに自分の責任を預けてしまっているときには、生まれないエネルギーなのです。
【純粋な自己否定】私の場合
私自身、自分に純粋な自己否定が起こったとき、つまり、自分の責任を取りたい、というように身体が動くようになったのは、そのストレスの大きな原因であった親元を離れることができてからでした。
親元に居たときは、自分の人生の責任をとるべきなのは、親だと思っていました。
そう理解していたというよりも、身体と心が自然とそうなってしまっていたという感じでした。
しかし、親元から離れ、大きなストレスから一時的に解放されたとき、このままの自分ではダメだと強く思えたのです。
なんとかしなきゃ、変わらなきゃ。
今の自分じゃダメだ。
変わらなきゃ。
自分のために変わらなきゃ。
それは、ゆっくりと静かにエネルギーが戻ってきた感じでした。
そして、私はそのタイミングで運よくカウンセリングの学習に出会うことができたのです。
私が出会ったカウンセリングの学習は、私に私の責任を徹底的に返してくれるような学習でした。
いいんだよ、自分になって。
自分のことをやって。
自分のために生きて。
もっと自分になりなさい。
もっと自分を求めなさい。
いいんだよ、いいんだよ。
自分で自分の責任をとることを赦してもらえた感じでした。
そこから私は、短期間で大きな変化を迎えることができたのです。
【純粋な自己否定】おわりに
今回の記事は、変わりきるための強い意志、それは、純粋な自己否定から生まれる。
そして、純粋な自己否定とは、自分で自分の責任をとろうとする、強いエネルギーそのものであると書いてきました。
自分に自信があるとか、自分がはっきりするという体感は、このように、自分で自分の責任をとるような動きの積み重ねによって、生まれていくものなのでしょう。
それは、きっと誰かに保証してもらえたり、一般的な知識から得られるものではないのでしょう。
カウンセリングの学習は、人間から奪われている責任を人間に返すための学習でもあると言えそうです。
自分を生きるということは、自分の責任を生きるということです。
自分になっていくというプロセスは、険しいですが、キレイで瑞々しく、そして、力強いエネルギーに満ち溢れた道であるようです。
あなたも責任、取り戻してみませんか。
最後に私が、カウンセリングの学習で出会えた有名な詩を紹介します。
「自分で自分の責任をとってもいいんだ」ということを私にはっきりとわからせてくれた詩です。
先生は、この詩をとっても優しい詩なんだと教えてくれました。
今のあなたの心には、どう響くでしょうか。
黒田明彦
ゲシュタルトの祈り
わたしはわたしのことをする
あなたはあなたのことをする
わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではない
あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない
わたしはわたし
あなたはあなた
もし縁があって、わたしたちが出会い、わかりあえたのなら
それは素晴らしいことだ
しかしもし、そうならなくても
それも仕方のないことなのさ
フレデリック・パールズ