今回の記事は、信じるものの選びかたということで書いてみました。
結論から言うと、それは、それが何よりも自分に優しいか、ホッとさせてくれるかどうかである、と私は思います。
また、シンプルに信じると思い込みの違いも書いてみました。
興味のある方は読んでみてください。
【信じるものの選び方】信じると思い込みの違い

たとえば明日は金曜日なのに、日曜日だと思っていたら、それは思い込みですよね。
信じるというのは、本当だと思うこと、です。
だから、今は本当だと思っていること(信じていること)でも、それが違うと思えたら、それは思い込みだったということになる。
ただ、それだけなんです。
だから、認知的、主観的には思い込みという状態は存在しません。
本当だと思えている状態があって、
思い込みだったと気が付く瞬間があるだけです。
哲学的には、意識的か無意識的かは別としても、本当だと思えているというだけで、人間が信じているものは本当じゃないものばかりだから、人間は皆、思い込みの世界を生きているという言い方もできる。
【信じるものの選び方】信じるとはどういうことか?
私は母のようになりたくないと強烈に怯えていたことがあります。
私が思春期の頃の母は特に精神的に不安定でした。
その影響を強く受けていることを自覚している私は、自分がおかしくなってしまうのではないかとおそれていました。
母と血がつながっていること自体を恨んだものです。
当時の私は母を嫌いになることで何とかバランスを取っていたという感じでした。
しかし、カウンセリングの学習に出会い、先生に出会い、「たった独り」という人間哲学を教えてもらいました。
たった独りの人間

人間はたった独りである。
それぞれ全く別の経験の世界を生きている。
同じ人間など存在しない。
家族であろうと全くの別人である。
私は、私になっていいんだ。
私は、私になればなるほどに母のようにならなくてすむんだ。
助かった。
それが私の実感でした。
私は私になれる。
私になっていいんだ。
私は、ただ私になればいい。
大丈夫だ。
赦された。
そう率直に思えたのです。
その教えに救われたのです。
先生に聞かせてもらったことを私が信じたから救われたというレベルではないのです。
先生に聞かせてもらった瞬間に、もう救われてしまったという迫力なのです。
真の信とは、信じる信じないという選択をするよりも先に、聞いた瞬間、既に救われてしまうような体験ではないでしょうか。
信じたから救われたのではない
救われたいからそれを信じようとするのではなく、聞いた瞬間にもう救われてしまっている。
もう、身体全体でそれそのものになってしまっている。
ガッチリつかんで、もう離さない。
頭で理解するということよりも、早く強く自分のものになっている。
それはきっと、ずっと、私が欲しかったもの、
ずっと私が求めていたものだったんです。
信じるものは救われるどころでありません。
聞いた瞬間、信じる、信じないの選択もなしに、そのまま救われてしまうことがあるのです。
【信じるものの選び方】信じようとするとはどういうことか?
このような、本当と思えること(信じられること)との劇的な出会いは確かにあります。
しかし、それ以外のものは信じられない!と、なると、どうにもこの人生は救われません。
私は苦しい。
私は救われたい。
だから、何かを信じたい。
願い

信じられるではなく、信じようとすること。
それは、どちらかというと願いというものに近いのかもしれません。
もう、それは間違いなく本当である、というようには信じきれてはいないのだけど、声に出して確かめながら、本当であってほしいと、願い、信じようとする。
そういう動き。
救われたいから、信じきれないままに信じようとする。願う。
そんなところがあると思うのです。
願いには動作が必要
願いには動作が必要です。
実際にその願いを毎日思い描いたり、声にしてみたり、
その願いを確認する行動がとても重要です。
信じきれないものは、そうでもしないと疑ってしまうから。
なんど願っても、信じきれない。
だけど、信じたくて、叶えたくて、救われたくて。
自分の願いを声にし、行動することで信じられるように念じる。
念願。信念。
私は日々の苦しみから救われたい。
頼りがほしい。
だから何かを信じたい。
だけど本当のものにはなかなか出会えない。
信じたいのに信じきれないものばかり。
だから、救われきれない。
信じきれないけど信じたい。
本当かどうかわからないけど、本当だと思いたい。
だから、私を救ってくれるものの存在を毎日確かめなくてはならない。
その願いを具体的に思い描き、声にして、確認しなくてはならない。
信じきれないものを信じさせてもらうために、神や仏の存在が必要なのだ。
それが、神への祈りや、念仏の形になることも自然な気がする。
【信じるものの選び方】思い込みをおそれている

私は、思い込みをおそれている。
思い込まされることをおそれている。
それはつまり、私は本当を求めているということ。
それが、どんなに素晴らしい教えだったとしても、
自分の芯から離れるような方向に進んでいくのは嫌なんだ。
自分の芯に迫るかどうか。
人間の本質。
本当に近いかどうか。
純粋かどうか。
私は、もうすでに、そこを求めることに生命がかかっている。
なぜ、本当を求めるのか。
それは、本当が、何よりも私に優しいからだ。
本当は、何よりも私をホッとさせてくれるからだ。
だから、それが信じられるかどうか、本当かどうかは、それが私にとってどれだけ優しく、どれだけホッとさせてくれるかで選べばいいんだ。
【信じるものの選び方】おわりに
信じられるものの選び方。
それは、それがなによりも自分に優しいか、ホッとさせてくれるかどうかである。
人生の苦しみを、なにものにも頼らずに乗り越えていくのは難しいかもしれない。
これは、最近私が、身につまされているところです。
はたして、自分で自分を救うことはできるのか?
私にはいまだに疑問です。
生きるということの当たり前の苦しみを乗り越えていくには、なにかしらの支えが必要ではないでしょうか。
そして、その支えは、できれば、自分にとって優しいもの、ホッとできるものを選んでいきたいものだよなぁと、あらためて思ったのでした。
黒田明彦